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ニューギニア慰霊の旅に参加して①

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<はじめに>
 南海支隊(高知歩兵第144連隊+福山歩兵第41連隊+独立工兵第15連隊)の戦友遺族会主催のニューギニア慰霊の旅に参加しました。お世話頂いたのは独立工兵第15連隊遺族会の辻本さんと土佐パシフィック旅行の浜渦さんで、私にはニューギニアで戦死した身内がいるわけでもなく、いわゆる遺族ではありませんが福山市の議員として福山の先人が多数亡くなった場所にて慰霊をしたいと思い参加させていただきました。また「ココダの約束」の主人公である西村幸吉さん(91)が同行されることも参加の大きな動機にもなりました。なお、同様の趣旨で高知県議会議員の中西議長をはじめ大石議員、土居議員の3名も参加されており、関心の高さを感じました。

 西村幸吉さんは高知144連隊に所属し、42人の部隊でただ一人の生還者です。生き伸びるためには敵兵の人肉まで食べ、そして敵が迫ってくるなか自力で脱出できない負傷兵には自決用の手榴弾が渡されました。西村さんは彼らに「もしお前たちがここで死ぬようなことがあっても、俺たちが必ずその骨を拾って家族に届けてやる」と、これが西村さんの誓った約束だったのです。そして戦後26年間も私財を投げ打ってニューギニアに滞在し、遺骨収容に尽力されました。何が西村さんをそこまでさせたのか。「あの兵士たちは地獄に放り込まれて死んだんですよ。自分の状況を彼らと比べたら、骨を掘って26年間を暮らしたなんてなんでもない、死んだ彼らを思えば、これくらいして当然です」

 私もかねてより中国新聞の御田重宝さんの「ニューギニア地獄の戦場」等を読んでニューギニア戦の悲惨さを知り、この体験を後世に受け継がなければならないと強く感じていたところです。そのためには実際に現地に行き、戦友や遺族の方の話を聞くのが最も効果的ではないかと考えたのです。歴史を知らずして平和を語ることなかれという先人の言葉もあります。戦死者を置き去りにしたまま現在の平和と繁栄を享受している私たちは、戦後の清算を先送りしてきたと言えるでしょう。私はあの戦争の実態を後世に伝え、今後の平和に結びつけるという大きな目標を持っています。

7月15日(金)
 東京の神田に前泊し、秋葉原でレイテのリモン峠で戦った第1師団遺族会の相原さんと面談しました。探していたレイテ5万分の1地図のコピーや、私の今後の取り組みに対するアドバイスを頂きました。遺骨収集には際限が無いが「見つけた遺骨は日本に帰りたかった遺骨」と割り切れば良いとのことです。

7月16日(土)
 本日最終日の靖国神社の「みたま祭り」に出かけました。多くの屋台が出店し大変な賑わいで、若いカップルも目に付き、靖国のイメージも随分と変わった感じでした。遊就館をあらためて見学すると、今回の慰霊団が訪問する予定のブナで玉砕した安田中将の手紙や最後の決別電報が展示されていました。次に神田の古書店街に行き、マッカーサー関係の書籍を購入しましたが、マッカーサーの名言「I shall return」フィリピンへの道のスタート地点がニューギニアだったのです。
 日暮里よりスカイライナーに乗りマッカーサーを読みながら成田空港へ、すでに多くの参加者が集合していました。今回の主役、西村幸吉さんは娘の幸子さんとともに電動車いすに乗って現れ、西村ファンの皆さんと挨拶を交わしていました。添乗員を含めて総勢30人、30代から70代後半までの幅広い年齢層です。参加者の約2/3はニューギニア初訪問であり、私のように遺族ではないが個人的な興味で参加した人も多い様子です。遺族は遺児の方が多いようでした。飛行機の出発は1時間以上遅れ、離陸は23時の成田空港閉鎖時間にぎりぎり間に合いました。
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7月17日(日)
 早朝、パプアニューギニアの首都ポートモレスビー空港着、すぐさま国内線に乗り換え、4000m級の山の聳えるニューギニアの背骨であるオーエンスタンレー山脈を越え、眼下に雄大なクムシ川を眺めながらポポンデッタ着。この空港は戦時中米軍が使用していたもので、着陸時に上空から飛行機の当時の掩体壕が確認できました。また空港のターミナル(プレハブ)脇には朽ち果てた米爆撃機B25が展示されていた。
 迎えの車に分乗してラミントンロッジに向かいます。昭和26年に大爆発した「ラミントン山」が正面にそびえ、スーパーマーケットも目の前にあるポポンデッタの中心地です。ロッジの中庭には花が咲き乱れていますが、シャワーはお湯が出ず水がチョロチョロで、慰霊団ででもなければまず日本人が宿泊するとは思えない宿でした。機内泊にもかかわらず皆さん元気そうで、強い意志を持って参加しているからでしょう。ここをベースに3泊して各地の戦跡を巡り慰霊祭を行う計画です。
一休みしてミイチン・サリガリ(西村さんのアシスタント)の家へ、ここは元西村さんが住んでいた家であり、当時収集した遺品や遺骨・遺灰がまだ残っていました。これをどうやって日本に持ち帰るかも今回の課題の一つです。高知県の公共施設に展示するという案で高知県議の方が動いていました。

 昼食後、昭和17年に日本軍がニューギニアに第一歩を記したゴナ海岸へ向かいました。ここには上陸時に設営した海軍桟橋が残っていますが、その上に立ってなぜ日本軍ははるか500km以上離れたここニューギニアにやってきたかを復習しました。主な目的はオーストラリアとアメリカの間に横たわるニューギニアを押さえて、その連携を断ち切るためでした。当初は海軍の機動部隊により豪軍の拠点ポートモレスビー攻略が計画されましたが、ミッドウェー海戦により日本の空母が全滅したため、急遽陸路でオーエンスタンレー山脈を越える作戦に切り替えられました。その作戦の主導を握ったのが辻正信参謀であったと言われています。西村さんら高知144連隊第5中隊は辻参謀の護衛を命じられており、辻参謀の「モレスビーでマッカーサーを捕まえる」という言葉を聞いたそうです。福山41連隊は後にレイテでもマッカーサーと対決することになり、因縁を感じます。
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 さて、海軍桟橋から海を見ていますと、地元の子供たちが気持ちよさそうに泳いでいます。私も短パン一枚になって海に入っていくと子供たちは大喜びで、一緒に泳いだり海の中でココナッツの実を食べたりしながら交流を深めました。傍から見ていた人によればとても楽しそうな雰囲気で「福山の議員は辞めてニューギニアの議員になったほうが向いているかも?」という声も聴かれました。
 その後、オーストラリアの戦跡公園に行きましたが、ここには日本軍の高射砲が2門残されており、よく整備されていました。その他、戦勝国オーストラリアやアメリカは各地に記念碑や公園を作っていますが、多くの戦死者を出した日本のそれは数も規模もはるかに及びません。さらに現地人の2名の女性がスパイに間違われて日本兵に殺された場所にも行きました。ここで81歳のおじいさんが現れ、唱歌「日の丸」を歌ってくれたのです。♪白地に赤く 日の丸染めて あぁ美しい 日本の旗は♪ かれこれ70年近く昔に日本兵に教えてもらったそうですが、日本人とニューギニア人は同じ釜の飯を食い、同じ寝床で寝るなど「兄弟」の関係にあったそうです。対してオーストラリア人はそのような事はしないので「友達」、この微妙な差は大きいようです。戦後オーストラリアの統治から独立してパプアニューギニアが誕生した際の初代首相になったソマレ氏も戦時中に日本兵のキャプテン・シバタより日本式教育を受けたとのことです。(戦後、来日したソマレ首相と柴田元中尉は感動の再会を果たしました)
by kkochan-com | 2011-07-22 22:18
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