福山歩兵第41連隊のレイテ島における戦跡調査報告書⑤

7月20日、716高地からピナ山方面に向かう経路を調査する。現地住民によれば戦前からの道であり、山道を見下ろす位置に多数の塹壕が掘ってあり、道に沿った岩には多数の弾痕が残っていた。住民によれば、この道がカナンガまで続いているそうだ。山頂からは米軍の砲弾片も多数出土し、ダイヤルの付いた遅発信管も見つかった。米軍が執拗に砲撃した証であり、日本兵はすぐさま尾根の裏側に退避したことであろう。また、今回の調査では残念ながら遺骨はまったく発見することができなかった。日本兵の遺体はおそらく米軍が戦場掃除を行い集団埋葬したと想定される。その場所について現地の樵から情報収集し、米・第1騎兵師団に資料が残っているか引き続き資料収集にも努めたいと考えている。

<調査に協力してくれた住民とともに>
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下山後、517高地からカリガラ平野に伸びる舌状台地に日本軍の塹壕が残っていると聞き、調査に行った。その台地にはカポーカンの町から旧道が延びており、標高50m程度の場所に複数の塹壕跡が見られた。おそらく41連隊が517高地の麓にたどり着き、最初に布陣した場所と推定された。筆者はここを「前進陣地」と命名したが、41連隊はここから517高地(ミノロ山)山頂に繋がる道をたどり、その後尾根伝いに692高地(バディアン山)から最終的に716高地(正岡大隊)とピナ山(西田大隊)に立てこもったのではないだろうか。以下にその推定経路を図示する。

<レイテ島1/50000地図>
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<考察>
大岡、御田、田中の3人はいずれもレイテ戦の従軍経験は無く、現地調査も行っていない。戦場は現地に行って見てわかることも多いのではないだろうか。517高地はよく目立つ独立峰であり山容も比較的なだらかで、ここに布陣していては砲爆撃の標的となり長期布陣は不可能であったと考えられる。ただし、平野部とのアクセスは良いので、食料の調達には適地であった。692高地は急峻な崖に囲まれているものの頂上は狭くカリガラ平野からの見通しも良く、517高地同様に砲爆撃の標的になったであろう。そして早い段階で米軍が陣地を構築し、西側の716高地攻略の前線基地として使用されたのではないか。大岡や御田の著書にあるような「716高地の米軍が517高地の41連隊を側面攻撃した」ということは考えにくく、716高地は守るには良いが、ここを拠点に打って出るような地形ではない。さらに716高地は517高地北側を流れるナジソン川沿いに浸透してくる米軍の動きが手に取るように把握できる要地で、前後は急峻な崖で守られた天然の要害であった。後方のピナ山方面からの補給路も確保されており、いざという時には撤退ルートにもなった。ゆえに41連隊がここに布陣しなかったとは考えにくく、実際に日本軍の装備が多数発見された。
102師団参謀長の和田大佐の手記に記載されている716高地に布陣した正岡隆少佐(陸士54期・今治市出身)は、マレー作戦におけるゲマスで豪軍の待ち伏せ攻撃を受けた経験、東部ニューギニアにおけるジャングル戦の経験、ジャングルで生活する知恵、ギルワ陣地の砲爆撃に耐えた経験を持つ歴戦の指揮官であった。ゲリラ顔負けの偽装陣地からの待ち伏せ攻撃により米軍に手痛い損害を与え、猛烈な砲爆撃に耐える陣地構築により粘り、米軍をして「レイテ作戦における特筆すべき勝利となった」と言わしめた。今後の課題は、国内で発行されているどのレイテ戦記にも掲載されていないこの戦いぶりを世に表すにはどうしたらよいかである。67年前の陣地跡の保存状態は極めて良く、多くの塹壕が掘られたままの状態で残っている。従来の慰霊活動が終息しつつある現在、新たに「戦跡巡り」というような趣味が広まっても良いのではないか。

<716高地頂上よりカリガラ方面 前方の517高地が砲撃の盾になる>
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by kkochan-com | 2012-07-30 13:34 | Trackback | Comments(0)
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