福山歩兵第41連隊のレイテ島における戦跡調査報告書③

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<11月16日>
2348高地の戦いでは、第12騎兵連隊G中隊が先鋒となって攻撃を仕掛けた。制圧したある陣地を調べたところ、そこがいくつもの塹壕とタコツボを相互につないで構築した蜂の巣状の陣地であり。200名ものジャップを収容出来る規模のものであることが判った。敵は1100時まで前進する部隊に対して散発的な反撃を行ったが、その後一時的に抵抗を中止した。その数分後、砲撃を受けた30名乃至40名の敵兵が 、G中隊に向かって攻撃を仕掛けて来た。このうち、13名が殺害され、残余の敵兵は、擲弾筒や機関銃、小銃などを装備した偽装陣地まで後退した。この新たな陣地を無力化する事は困難を極めた。我が師団の部隊は2度の攻撃を行ったが、その都度失敗して引き下がらざるを得なかった。敵はしばらくの間、我が騎兵部隊の将兵を地面に釘付けにし、戦線はこう着状態に陥りかけたが、個々の将兵らの努力によって、戦況は次第にアメリカ軍にとって有利なものとなっていった。

<11月21日>
引き続きの悪天候のせいで、アメリカ軍砲兵隊による効果的な集中射撃の機会はなく、この日は敵を温存させることになった。105ミリ榴弾砲によって300発を発射したものの、日本軍の陣地は刃先のように鋭い稜線の上にあり、命中させる事は極めて困難であった。激しい雨がやはり視界を塞ぎ、切り立った地形は、弾着修正を一層困難にさせ、弾着修正を行うために前方に進出していた観測隊員らを悩ませる事しきりであった。この山岳戦闘のほとんどは、このような状況下で行われたのである。砲弾のほとんどは、地図上に指示された升目の中の標的周辺には着弾する事なく、手前の濃い密林地帯に落下して爆発効果を著しく減退させるか、または稜線の標的の上を飛び越えて、その後方に落下するかのいずれかであった。こちらの砲兵が射撃を始めると、敵はすぐに稜線の反対側の斜面に隠れてその攻撃をやり過ごし、一旦砲兵が射撃を中止すると、彼らはまた元の陣地に素早く戻り、こちらの歩兵が全力で険しい崖を駆け上ってそこを占領しようとする動きを確実に封じるのであった。

<11月24日>
第112連隊戦闘団(RCT)は、ミノロ山からシナヤワン地域において抵抗する敵に対して攻撃を実施した。最初の戦闘で、A中隊は3名のジャップを殺害し、他の9名の敵兵は南西方面に向かって逃走した。その後、第112騎兵連隊B中隊と第34歩兵連隊E中隊は、協同で師団の担当区域の境界線付近に進出し、付近のカマボコ兵舎周辺に掘られた塹壕で、軽機関銃や擲弾筒の他、鹵獲した米国製ブローニング自動小銃(BAR)や短機関銃、小銃などで武装した勢力不明の敵部隊と交戦した。サウスダコタ州ストラギス出身で、B中隊を率いていたレオナルドL.ジョンソン大尉は、この戦いにおいて凄まじい猛攻撃を敵に加えたとして表彰された。ジョンソン大尉自身、敵の手榴弾の破片によって負傷していたものの、大尉は攻撃の手を一切緩めず、常に声を振り絞って部下を鼓舞し続けたのであった。

<11月25日>
朝に行われた事前偵察と、砲兵隊による準備射撃の後、第112騎兵連隊はふたたび正面の敵に対する攻撃を開始した。戦闘は終日、かなりの接近戦の形で続いたが、我が軍の強力な攻撃にも関わらず、日本軍は陣地を放棄せず、頑強に抵抗した。日本軍の陣地は、我が軍の最前線から見て滑りやすい急斜面の上方100ヤード以内の地点にあったが、手榴弾を下に向かって文字通り転がしてくるには最適の地形であった。ジャップたちは、稜線上に沿って塹壕を掘り、我が軍の砲兵による制圧射撃が始まるや否や、彼らはそのすぐ後ろに掘った深い穴に飛び込んで、砲弾をうまくかわすのであった。騎兵第112連隊の攻撃の中でも、B中隊の2名の兵士の活躍は特に優れたものであった。テキサス州ダラス出身のハロルドB.ロフマン伍長と、オクラホマ州ヘンリエッタ出身のハービーB.バンガード軍曹は、機関銃と小銃による敵の激しい射撃をかい潜り、補給されたばかりの手榴弾の箱を持ってジャップの機関銃座の近くにある木の根元にまで到達すると、そこから敵の塹壕に向かって一気に手榴弾を投擲したのであった。この攻撃により、彼らの位置は敵に特定され、機関銃弾が彼らの隠れていた木を切り裂いた。持っていた手榴弾すべてを投げ尽くした二人は、後方の友軍に向かってもっと手榴弾を持ってくるように叫んだ。この手榴弾攻撃によって、二人は少なくとも6つの日本軍の塹壕を沈黙させる事が出来た。さらに他の日本軍のタコツボを攻撃するため、ロフマン伍長は匍匐で前進を続け、その間、すでに負傷していたバンガード軍曹は、カービン銃を使って援護射撃を行った。こうして 前進していたロフマン伍長は、あと少しで任務達成という矢先に、すぐそばで敵の手榴弾が爆発し、伍長は即死した。一方、すでにかなりの出血をしていたバンガード軍曹は、引き続き最前線に一人残り、指揮官からの後退命令が出るまでの間、敵と交戦し続けたのであった。この2人の大胆不敵な戦いぶりにより、部隊の攻撃は大きな成功を収めたのであった。

<11月26日>
第12および第112騎兵連隊は、目の前に引き続き展開していた敵を攻撃した。過去二日間にわたって、第112騎兵連隊を苦しめていた敵部隊は、午後になって行われ第82および第99野戦砲兵大隊の集中射撃によってようやく制圧された。

<11月27日>
この日、第12騎兵連隊第2大隊は終日、2348高地における日本軍に対する攻撃準備に専念していた。連隊は11月28日早朝から、敵に対する包囲攻撃を開始した。攻撃は成功し、敵は多くの兵器を遺棄して後退した。しかし、濃い霧と険しい地形のせいで追撃は断念せざるを得なかった。

<11月29日>
さらなる困難が第12騎兵連隊第1大隊を襲った。約2個中隊相当と見られる敵の部隊が、後方の補給路を遮断したのである。この大隊では、以前から細くなっていた補給のせいですでに食糧不足に悩まされていた。この補給路遮断によって、最悪の事態の発生が予想された。そのため、第5騎兵連隊D中隊とA中隊からそれぞれ1個小隊ずつの提供を受けて増強された第12騎兵連隊のC中隊が、この日本軍部隊を同時に攻撃したが、逆に猛烈な射撃を受け、中隊はその場に釘付けとなってしまった。夜になっても、ジャップの部隊は引き続き後方の補給路を占領したままであった。
他方2348高地にあった第12騎兵連隊第2大隊は、日本軍による小規模な反撃を撃退した後、周辺に散った将兵らを集結させ、部隊を再び掌握した。日本軍は、6度の夜襲を敢行したが、いずれも失敗に終わり、騎兵隊将兵は陣地から一歩も引かずに守り続けた。

<11月30日>
朝、第12騎兵連隊第2大隊は敵の陣地を攻撃するために前進を開始し、F中隊の活躍によって、その日の終わりまでに約100名の敵兵を殺害したが、夜になると再びジャップの部隊が高地に留まってそこを占領し続けた。
第12騎兵連隊の関心は、引き続き、補給線上を横断する形で布陣していた強力な日本軍部隊に向けられていた。すでに飢餓状態に陥り始めていた第1大隊の将兵にとっては、兵糧攻めを受けた現状を何とかする事が至上の命題となっていたが、補給はまったく途絶したままであった。補給計画を担当する師団参謀第4部のフランシス・ドーアティ中佐の指揮の下、前線将兵に届けるための多くの補給物資が集積された。山岳地帯を通る道路の入り口にあった前衛の山の上では、第12騎兵連隊が補給拠点と原住民の野営地、野戦病院、それに休憩地点を一カ所に集めて開設した。ここでは、家族と離れてしまった約300名の現地人担送要員が、ゲリラ部隊によって守られ駐留していた。これらの現地人支援要員らは、一回あたり6日間の契約で雇用されており、フィリピン人指揮官の許可なくしては勝手に持ち場を離れる事は許されていなかった。この時は、食糧の補給こそが最も重要な問題であり、フィリピン人要員の頑張りなくしては達成できないものであったため、この処置は致し方ない事であった。彼らは、武装兵によって周囲を守られる形でこの補給拠点を出発し、食糧を担いで前線までの困難な道を歩いたのである。一組のペアに対して割り当てられた、食糧や武器弾薬を含む様々な補給物資は、総量50ポンドにも及んだ。丘陵の急斜面に続く細くて狭いぬかるんだ道は、谷間の急流を越え、深いブッシュの中に続き、ついに周囲は雲に覆われるほどになった。3マイルの道を進むのに、5時間はかかるのである。500フィート以上の急斜面を登る麓には、中継地点としてもう一つの補給拠点がおかれていた。物資を届けるべき前線部隊は、そこからさらに一日以上歩かねばならない場所にいた。敵が時折出没する地域に近いその中継地点には、さらに300名のフィリピン人輸送要員が待機していた。これら待機していた300名の輸送要員らは、そこから前線部隊に向かって最後の行程を歩き始め、一方でそこまで最初に荷物を運んだ要員らは、再び今来た道を引き返し、さらなる物資の補給に向かった。この緻密に計画された輸送システムは、やがてジャップの部隊が輸送路を完全遮断するに至って破綻し、その道路の確保を巡って起こった戦闘は、まさに生存をかけた戦いとなったのである。

<12月2日>
2348高地では、第12騎兵連隊第2大隊が引き続き、ジャップによる激しい抵抗に苦しんでいた。この地域では、他の山岳地域における戦闘と同様、敵の攻撃は実に激しいものであった。敵の斥候の展開具合を見る以上、オルモック渓谷における上りや下り道で敵と遭遇しないように、何とかして高地を占領しようと企図しているようであったが、進撃してくるアメリカ軍によって敵はすでにかなり圧迫されつつあり、それ以上後退してしまえば、高地の奪取というその目的を達成出来なくなってしまうのは明らかであった。12月2日から3日にかけての夜、敵は第2大隊の一角に対して強力な夜襲を2度実施したが、それらは第271野戦砲兵の支援射撃を受けて頓挫した。副大隊長でテキサス州エルパソ出身のチャールズL.タウンズ少佐は、この先頭における勇猛果敢な指揮によって表彰された。3日間にわたり、タウンズ少佐の大隊は、2348高地の占領を目指して激しい戦闘を続けたが、重厚な塹壕群の中から攻撃してくる強力で重武装の敵部隊によって撃退されてしまった。そのため、タウンズ少佐は勇敢にも増援部隊を率いて、山を大きく越えて迂回し、そこから強力な敵の防衛部隊を突くという任務に自ら志願をした。こうして翌朝の朝には理想的な位置から攻撃を仕掛けられる場所にまで何とか移動したタウンズ少佐は、その夜にはそこで塹壕を構築して部下を待機させた。しかし、夜の帳が落ちてすぐ、ジャップの部隊は機関銃による凄まじい射撃と擲弾筒攻撃を浴びせながら、狂信的な「バンザイ突撃」を敢行して来たのであった。この攻撃によって多くの死傷者を出したにもかかわらず、タウンズ少佐の兵たちは敵の攻撃を何とか食い止め、やがてついにこれを撃退したのであった。この二度の夜襲の間、タウンズ少佐は自らに降りかかる危険をものともせず、冷静な勇気と任務に対する不動の決意をもって自ら最前線の陣地に足を運び、そこで個別に戦闘指揮を執ったのであった。その戦闘の最中も、敵の激しい銃火の前に少佐の命は常に危険にさらされていたが、鮮やかな指揮で各種支援火器をもっとも効率よく撃ち込める場所に配置させ、それをもって敵に甚大な損害を与える事に成功した。最後に行われたもっとも強力な敵の攻撃においては、少佐は敵からわずか10ヤードの至近距離で無線を使い、砲撃支援の要請を行ったのであった。その後、タウンズ少佐の部隊は敵に対する反撃を開始し、結果として日本軍部隊は戦列を一気に突き崩され、多くの死傷者を残したまま算を乱すようにして退却していった。この攻撃によって、大隊主力は翌朝に攻撃を実施し、敵陣の制圧に成功した。

<考察>
 以上のような2348高地(716高地)を巡る激しく困難な戦闘経過が戦史に記してあることの裏返しには41連隊を含む日本軍の勇戦・敢闘があったと見做して間違いない。この「Starvation Ridge」(飢餓稜線)における戦いに耐えた第12騎兵連隊第1大隊は大統領からの感状を受ける事となった。
第1騎兵師団戦史には総括的に次のように記されている「脊梁山脈での戦闘は、レイテ作戦においては特筆すべき勝利となった。第1騎兵師団の将兵らは、峻険で深い密林地帯が広がり、雨と泥でぬかるんだ地形にも負けずによく敢闘した」。41連隊を主軸とする日本軍もまた米軍と同じ環境の中、弾薬・食糧の補給も無く、現地住民の協力も無い中で、米軍から鹵獲した武器弾薬で守りを固め、米軍の補給路を襲撃して食料を奪う等、ゲリラ戦で米軍を苦しめた。圧倒的な砲爆撃に対しても地の利を生かした陣地構築により、砲撃による被害を最小限にとどめて兵力を温存した。脊梁山脈における戦いは、米軍の得意とする制圧砲爆撃の後に戦車を先頭にして前進するという攻撃スタイルが取れなかったことにより、雨に打たれ泥にまみれた人間対人間の戦いとなったと言えるのではないか。
戦史によれば2348高地は12月2日に陥落したとあるが、この夜に行われたという「バンザイ突撃」はピナ山に布陣していた独立歩兵第364大隊(長・野尻大尉)によるものかもしれない。陸士54期生の遺稿集「留魂」によれば、「野尻大隊は11月29日に敵手に落ちた716高地をピナ山から猛然と突進し、激戦の末にこれを奪回した。然し、12月1日から敵は反撃に転じ同高地の争奪を廻る激闘が展開されたが12月3日、大隊長は陣頭指揮中壮烈な戦死を遂げた。」との記載がある。米軍戦史には「奪回された」との記載は無いが、激しい争奪戦が行われたことは間違いないだろう。
なお、12月2日までに第1騎兵師団は2,015人の日本兵を殺傷し、32人の日本人と91人の台湾人と朝鮮人と中国人を1人ずつ捕虜にした。対して、この作戦による師団の損失は戦死133人、戦傷490人、行方不明7人に達したという。
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by kkochan-com | 2012-07-30 13:55 | Trackback | Comments(0)
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