親善友好都市・タクロバン市の台風災害における災害復興状況調査並びに防災対策を調査し、災害に対する備え、非常時における市民交流の在り方などについて研究するために訪問しました。 メンバー:早川佳行、大田祐介、連石武則(いずれも水曜会所属) <11月5日> 出国:福山→福岡→マニラ→セブ タクロバン市からのリクエストにより、「タクロバン福山交流支援センター」に寄せられた寄付金を活用してセブ島にてガレキ処理用のダンプを購入し、フェリーでレイテ島のヒロンゴス港に送る手配を行いました。セブ島はレイテ島と比較して被害が少なく隣接する島であることから、レイテ復旧の拠点(物資搬送等)となっていました。セブ泊 <11月6日> セブ港から高速艇でレイテ島・オルモック港に向かいました。オルモックは旧日本軍の拠点があった場所であり、歩兵第41連隊もオルモックに上陸してタクロバン方面に向かったのです。その足跡を車でたどり、道中にある激戦地・リモン峠の慰霊碑を参拝し、近隣に住む住民と交流しました。タクロバン泊 <11月7日> 今回の視察において様々な調整を担当してくれたカリーエムテックスの明平夫妻の案内により、最初に市役所に隣接する台風により被害を受けたジャパニーズ・マドンナパーク(日本兵慰霊公園)を訪問しました。公園周囲のフェンスが高潮により倒壊していましたが、レイテ州により修繕が完了していました。島内の多くの慰霊碑が損壊し、遺族会等が高齢化したため修繕が進まない中、マドンナパークの修繕が早期に行われたことを感謝したいと思います。 続いてタクロバン市役所を訪問し、アルフレッド・ロマルデス市長と面談し、搬送したダンプを寄贈しました。ガレキ処理に活用させてもらうとのこと。市長は全世界からの支援により早期に復旧が成ったとは言われるものの、海岸沿いに住む住民の移転が課題であると述べられました。海岸より40mの範囲内に住む住民は新たに造成された集落に集団移転を行い、跡地は防波堤を建設するなどの高潮対策を実施する予定とのことです。なお、その設計にはJICAが関わっており、日本からの支援に感謝しているとのこと。しかし、集団移転集落は地権者との折衝や建築資材・重機の不足により計画は遅れているそうです。 次に市内の主要交差点に建っていた「FUKUYAMA」タワーの再建・披露式が行われました。このタワー(時計台)は約30年前にYMCAの関係者により建てられたが、台風により倒壊したので、支援センターに寄せられた寄付金により再建されました。時計は日本からソーラーパネル電源式のものを私が持参して取り付けを行いました。 最後にタクロバン市民病院を訪問し、持参した中古医療機器を寄贈しました。あらかじめ病院側のリクエストを聞いたところ、世界中から様々な支援は受けているが、医療機器の多くが流されたため十分な診療が行えていない状況でした。寄贈した機器の内訳は福山市民病院提供の血圧計、有木医院提供の小型エコー(超音波診断装置)、脳神経センター大田記念病院提供の心電計2台、これらを3人で分担して日本より運搬しました。動作確認をした後に引き渡し、病院側より感謝状をいただきました。 <11月8日> 早朝5時半より台風被災1周年記念のウォーキング大会が開催されました。参加者は約1,000人、市長を先頭に海岸沿いの被災地を約6㎞歩きましたが、沿道の住民より市長に対する感謝の言葉が聞こえました。復興は予想以上に進んでいる印象を受けました。災害直後のテント村はほぼ解消されており、倒れた木を製材して建築資材にリサイクルし、支援物資のテントを解体して屋根に張った急造の家屋が多数見受けられました。フィリピン人の生活力の高さを感じました。 10時より2,400人が埋葬してあるという集団墓地において慰霊祭(ミサ)が行われました。世界中のメディアが取材に来ており、主催側にはイメルダ・マルコス国会議員他数人の国会議員も参列していました。多くの遺族の参加の元、盛大な慰霊祭が執り行われ、犠牲者を追悼して復興に向けての誓いを新たにする式典は大変感動的でした。ただし、この場に親善友好都市・福山市の行政関係者の姿が見られなかったことを残念に感じました。 慰霊祭の後、レイテ州選出国会議員による昼食会が開催され、復興に寄与した様々な支援団体が表彰されました。我々も福山市の代表としてイメルダ・マルコス議員より表彰を受けました。台湾の「ツチ・ファウンデーション」の代表者も参加していましたが、多くの支援の中で「ツチ」の名はひときわ印象深いという住民が多かったです。ただ支援を施すだけでなく、支援により何らかの復興へのサイクルが回り始める仕掛けを作っており、我が国も見習うべき取組みと感じました。 夕方、市郊外の集団移転集落を訪問しましたが、日本の支援により建設された仮設住宅が並んでおり、約90家族・400人のタクロバン空港近くの海岸沿いで生活していた住民が移り住んでいました。距離は離れているが海沿いの高台に建設されており、漁業に取り組むことが可能となっています。しかし、飲料水の不足等、不自由な点は多数あるとのこと。また成人男性の姿が少ないのは、台風の際に男性は家を守るために残ったため犠牲になったケースが多かったそうです。 フィリピンは一般的に子供は多く、出生率は3を超えるとのこと。これはアジア諸国でも有数の数字であり、将来の日本の労働力不足を補う鍵となると思われます。英語も通じますし、今後とも交流の継続が必要と感じました。 1周年の夜は全市を挙げての「キャンドルナイト」が行われ、街路に多くのろうそくが灯された様子は市民の一体感を感じる良い取組みであると感じました。 <11月9日> 帰国:タクロバン→マニラ→関空→福山
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