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レイテ島訪問記

8月19日
タクロバン福山交流支援センターの訪問団17名(うち小中学生4名)は、関空―マニラ―タクロバンと乗り継ぎ、レイテパークホテルに投宿した。当夜は市内在住日本人、地元経済人による歓迎会が開催された。

8月20日
10時タクロバン市役所へ市長表敬訪問に向かい、一行は市役所入口にて歓迎のネックレスをプレゼントされる。
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アルフレッド・ロマルデス・タクロバン市長との面談は基本的に英語で行い、私の言い足りない部分を通訳が補うというスタイルで進行した。
最初に一行の自己紹介を行い、市長再選(4月)の祝意を伝えた。ロマルデス市長は羽田市長より今年のばら祭にご招待いただいたのに、選挙の都合で訪問することができず申し訳ないと断りを述べられ、11月末なら時間が取れそうなので一度日本を訪問し、福山の地を自らの目で確かめて今後の交流について福山市と協議したいという申し出があった。私は、今年は戦後65年、親善友好都市提携30年の節目の年でもあるので、福山市訪問は非常にタイムリーであるし、両市の交流の再スタートを切ることができるのではないかと答えた。ただし、今回の私の訪問は公式な訪問ではないので、私が福山市の代表としてロマルデス市長を招待することはできないと述べ、帰って羽田市長に伝えると申し上げた。タクロバン福山交流支援センターとしてできることは協力したいと申し添えた。
ロマルデス市長に対して友好都市提携時の経緯を承知しているか質問したところ、詳細は不明なので過去の資料を調べて経過がわかれば福山市サイドにもお知らせしたいということであった。私は友好都市提携の背景には先の大戦による戦死者の慰霊があるとし、先の大戦でフィリピン住民にも多大なご迷惑をおかけしたことはお詫びするが、今後とも日本人戦死者の慰霊を続ける必要があることを申し上げたところ、ロマルデス市長も理解された。
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参加者より今後は過去の歴史を乗り越え互恵の精神で両市の交流を深めて行きたい、具体的には今後の産業交流として農業技術交流や小学生同士の人的交流の用意があるとの提案があった。また参加者よりタクロバン市の喫緊の課題は何かとの質問に対してロマルデス市長は水道事業であると回答した。対して福山市水道局は高い技術を有しており、お役に立てるのではないかとの意見があった。また、清掃事業や廃棄物処理においても課題があるように感じられた。
最後に一行はロマルデス市長に記念品を手渡し、市長を囲んで記念撮影を行い市長表敬訪問は和やかな雰囲気で終了した。

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午後、福山市立光小学校と交流しているアンジェリカム小学校を訪問した。校門をくぐると全校生徒の歌と教職員によるダンスの歓迎を受けた。訪問団の4人の小中学生も交流を深め、この学校に留学したいという子供もいた。年末にはこの小学校の児童3名を支援センターの負担により福山に招待することになっており、希望者の中からただ今選考中ということであった。
夕方、現地実業家所有の広大な農園(50ha)に行き、両市の農業技術交流の可能性について協議した。レイテ島はフィリピン諸島の中でも最も耕作面積の広い島であり、農産物も米や根菜類をはじめとして日本産と同類のものが多く、日本の栽培技術や機械化を導入すればかなりの成果が見込まれた。

8月21日
レイテ島内の激戦地慰霊の旅に出発する。なお、今回の訪問団の記事が中国新聞に掲載されたところ、多数の遺族よりお供えの提供があった。遺族にとっては何年経っても悲しみは風化することは無いように思える。
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最初にパロにあるマッカーサー公園を訪れた。ここはマッカーサーが「I shall return」の約束を果たして上陸した地である。背後には激戦地「ヒル522」(十字架山)がそびえ、車中より眺めながら「レイテ戦記」の該当部分を参加者に紹介した。一行はマッカーサー上陸後の米軍の軌跡をたどるようにサンタフェを通り、ハロを経由してトゥンガに入った。ここの小学校は福山歩兵第41連隊の司令部が置かれた地であり、昭和19年10月29日、米軍と不帰遭遇戦となり苛烈な砲撃により戦力は半減したと言われている。当時の面影は全く無いが、唯一校庭内の巨木が歴史の証人としてそびえていた。さらにカリガラを通って日米が50日間にわたって対峙したリモン峠の慰霊碑を参拝する。
その後、41連隊終焉の地ビリヤバに向かった。ここの41連隊の慰霊碑はレイテ島に数多くある慰霊碑の中でも最大規模の大きさであり、広さは約50坪、敷地の隅にはトイレまで設置されている。しかし、付近住民によれば3年間だれも管理に来たことがないと言われていた。この慰霊碑は福山フィリピン協会が建立したもので、平成15年完成と比較的新しいが、既に碑の文字は読めず、管理の不行き届きが感じられた。さて、祭壇の準備中に降っていた雨も止み、午後1時頃より慰霊祭が執り行われた。まずは国歌斉唱、続いて玉音放送のCDを流し、英霊の皆様に65年遅れの終戦のお知らせをした。僧侶の読経に続き各人が焼香し、最後に元戦友による41連隊の連隊歌のテープを流し、英霊達の霊を慰めることができたと感じた。お供えのお菓子やお酒は慰霊祭に参列した50人以上の付近の住民に配った。
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ビリヤバを後にして41連隊がレイテに上陸したオルモックに向かい、通称「コンクリートハウス」を見学した。ここは日本軍が立てこもり2日間にわたり死守した建物で、砲弾により穴だらけとなったまま保存されている。参加者からは「原爆ドームより迫力がある」との言葉も聞かれた。
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8月22日
タクロバン→マニラ→関空で帰国 

9月9日10時より議会にて今回の成果をもとに一般質問を行いますので、ご都合がつけばぜひ傍聴にお越し下さい。
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by kkochan-com | 2010-09-04 15:05 | Trackback | Comments(0)