<   2010年 12月 ( 2 )   > この月の画像一覧

タクロバン市訪問団の成果

11月27日の夕方、市議会議員5名を含む7名のタクロバン市訪問団は福岡空港に降り立ちました。
一行はアサヒタクシーのジャンボタクシーにて広島市に寄り原爆ドームを見学し、一同ライトアップされたドームの美しさに魅せられた様子です。
そして広島市の戦後復興に目を見張っておられました。

c0060075_15552647.jpg

翌28日は鞆の浦の対潮楼と福山城の天守閣に登り、福山の風光明美な景色を満喫されました。
写真は常夜燈におられた鞆龍馬さんとの記念撮影です。
さらにリーデンローズを訪問して、テレマン室内管弦楽団の演奏を聴き、ホールの音響の良さに驚いておられました。溝口館長とも意見交換を行い、今後両市における音楽交流の可能性も見えてきました。
夜の福山市議会有志との交流会では、訪問団長のクリスティーナ・G・ロマルデス議長より全員を来年6月30日のタクロバン最大のイベント「サンヨウフェスティバル」に招待する旨のスピーチがあり、大いに盛り上がりました。

c0060075_16463844.jpg

ロマルデス議長とのツーショットです。
また、6月26日にはトライアスロンも開催されるそうで、ぜひ福山の選手にも参加してほしいとの要請がありました。福山はトライアスロンが盛んな地域であり有力選手も多数おられますので、しっかり声をかけて多数参加できればと思います。
また、来年6月末にトライアスロン応援とサンヨウフェスティバル参加を目的とした福山市民を対象とした「タクロバン訪問ツアー」を企画してみたいと考えています。

c0060075_1625279.jpg

29日は市長表敬訪問のために市役所を訪れましたが、玄関先で多くの市職員の出迎えを受け感激された様子です。羽田市長も「ぜひタクロバンに来てください」としきりにラブコールを受け苦笑いでした。
午後は光小学校を訪問して授業を見学し、児童と一緒に給食を食べて交流しました。
児童からは「サンタクロースはどうやって来るのか?」というかわいい質問があり、対して「サーフィンに乗ってくる」という回答がありました。
その後は水道局を訪問して配水管敷設技術や漏水探査法の説明を受け、中津原浄水場の監視システムの視察を行いました。フィリピンの漏水率は50%前後もあるそうで、福山市水道局の技術を輸出することができれば素晴らしい国際貢献になるのではないでしょうか。
最後に商工会議所を訪問して林会頭と面談し、今後の産業交流の可能性について意見交換を行いました。ハワイのマウイ郡との交流も商業ベースの交流が原点にありますので、マウイとの交流を見習っていければと考えています。
夜はタクロバン福山交流支援センター会員との交流会が行われましたが、多くの会員に訪比経験があるだけになごやかな雰囲気でした。

c0060075_16104446.jpg

訪問最終日の30日は早朝より緑町の41連隊兵営跡地にオープンした商業施設ココローズの一角に、両市の交流発祥の地として「銀杏」と「からたち」を記念植樹しました。
神事は41連隊の遺族会のお世話をしてこられた潮﨑神社の三輪宮司様にお願いしました。
植樹した場所は当時火薬庫があった場所で、現在はミスタードーナツのお店の前です。当時は高い塀に囲われており、衛兵が周囲を巡回していたそうです。
なお、植樹に至る経緯を記した説明板を立てましたが、内容は次の通りです。
=━=━=━=━=━=━=━=━=━=━=━=━=━=━=━=━=━=━=━=━
               福山兵営跡地
 この地は旧日本陸軍の歩兵連隊「福山兵営」跡地であり、明治41年に歩兵第41連隊
が現在の企業誘致の形で広島からこの地に転営し、備後の郷土部隊として福山の発展に
寄与し福山市の市制施行のきっかけにもなった。
 昭和12年、歩兵第41連隊が支那事変に出動後、兵営は41連隊補充隊として応召兵の
教育に使われた。また新たに歩兵第141連隊、歩兵第232連隊がこの兵営で新編成され
た。その他この兵営に駐留した部隊は、西部第62部隊、西部第63部隊、船舶砲兵第1連
隊、船舶機関砲第1連隊である。中でも歩兵第41連隊はマレー作戦をはじめ多数の激戦
地に赴き、東部ニューギニアとフィリピン・レイテ島において2度全滅したことにより、日本陸
軍史上最も酷使された不運の連隊と言われている。
 戦後は福山空襲で焼失した学校・官庁等が兵舎を利用し、後に広島大学福山分校、広
島大学附属福山中・高等学校、福山市役所仮庁舎、緑町公園、そしてサンピア福山閉館
後に「ココローズ」がオープンし、兵営跡地は大きく様変わりした。しかし、この地から多く
の若者が出征し多数戦死したその歴史の延長に現在の福山市の発展があることを忘れて
はならない。
 福山市は昭和55年10月19日にレイテ島タクロバン市と友好親善都市提携を結んだが、
提携30周年記念に来日されたタクロバン市のクリスティーナ・ゴンザレス・ロマルデス
議員によりこの「交流発祥の地」に記念植樹が行われた。なお、この場所に当時は火薬
貯蔵庫があり、兵営を囲う石垣の上には鋭い棘のある「からたち」と、兵営内には「銀杏」
が多数植えられていた。
                       平成22年11月30日
                 タクロバン福山交流支援センター
                         顧問 大田祐介
=━=━=━=━=━=━=━=━=━=━=━=━=━=━=━=━=━=━=━=━
c0060075_16112116.jpg

10時開会の市議会本会議においても傍聴に訪れた一行を議場の全議員・執行部が起立して拍手で迎え、心からの歓迎の意を表しました。一行にはタクロバン市民病院の院長先生もおられましたので、福山市民病院と脳神経センター大田記念病院の見学も追加され、本当に内容の濃い訪問となったと思われます。これをきっかけに両市の交流が本格的になることを期待しております。
[PR]
by kkochan-com | 2010-12-11 16:55 | Trackback | Comments(0)

41連隊の生存者

NHK戦争証言アーカイブスに41連隊の生き残りの方の証言が掲載されていました。
大津市にお住まいの岡 今朝像(おか けさぞう)さんです。
東部ニューギニア戦における戦争の悲惨さを伝えています。
http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001100509_00000

c0060075_18224834.jpg

私もぜひ直接お会いしたいと思い、先日、大津まで行ってきました。
岡さんの部隊「41連隊第2機関銃中隊」の戦闘状況は「福山聯隊史」片岡修身著P92~にも取り上げられています。こちらは開戦当初のマレー作戦であり、勝ち戦とは言え死と隣り合わせに変わりはありません。
下記の引用は、シンガポール攻略戦における最大の激戦地「ブキテマ高地」における戦闘状況です。
---------------------------------------------------------
昭和17年2月14日
福山歩兵第四十一聯隊第二大隊(長=友野幾久治中佐)の行動
2月14日の暑熱は、際限なく上昇するようだった。
もう誰の水筒を振っても音を立てない。
おりから夕焼けがはじまろうとして、薄いセピア色の紗を張るように夕暮れがやって来た。弾道のうなる空は、みごとに赤く映えて、鮮冴な夕焼けがクライマックスに達していた。
ぽつんぽつんと星が現れてきた。
福山歩兵第四十一聯隊の第二機関銃中隊長の岡今朝像中尉は、全員集合と声をかけた。
「いまごろ何ごとやろうな!」と兵隊は呑気な顔をして集まってきた。
集まって中隊長の顔を見て、みんな「はっ」とした。
何かあったんやろうな-と兵は小声で言っていた。
岡中隊長はみんなの顔を見まわし、静かな口調で
「ただいま命令がきた。われわれは敵陣ふかく入ることになった。みんな不肖中隊長の下にあって、いままでじつによくやってくれたが、この度こそはみなの生命は中隊長が貰わねばならぬ。覚悟してくれ。親しい人には最後の別れを告げるために手紙を書け、岡部聯隊長からとどけられた酒もある、ゆきわたらんが飲んでくれ。この戦は世界注視の的である。福山四一として、男らしく死んでくれ」
と言う事だった。
さあ、忙しくなったぞ。
決死の出陣とあっては別れの酒も飲まにゃならんし、手紙も書いとかにゃならんし。
まず何と言っても、千人縫を出してみて、恐る恐るなぜさすりながら、千人縫を作ってくれた女性たちに、武運をお願い申し上げねばならん。
死を前にして、静かに死を考えるのは、今が始めてであった。興奮してきた。
マレー作戦に参加以来、戦場を馳駆して幾度か死を考えたことがあったが、それはいわば刹那的に閃く花火のように、決死という立場に立っただけだ。
そして兵隊たちは、きのうとはまったく別人のごとく静かに、何かしいんと澄んだようなものをたたえ、お互いの間にかってなかった程の、しみじみとした触れ合いを感じあっていた。
第二機関銃中隊の精神が一つに統一されたと言うだけでなく、新しい信頼と勇気と、愛国心が炎のごとく生まれてきた。
その時、「おーい、第二機関銃は集合だ」と岡中隊長は大声を出した。
もうだいぶ暗くなっていた。
友軍の砲撃もものすごい。ピュンピュン飛び交う銃弾、時には美しい色をした曳光弾が飛んで来る。前進したらブキテマ高地の端に、白人住宅が群立していた。ここが戦場になっていた。
内海勇少尉と大内武生少尉とは、それぞれ小隊長として最先頭を進んでいた。
ベビー・ゴルフコースのある広々とした芝生のある豪華な2階建ての住宅群だ。
しかし、ジットラ・ライン以来大小数十回の戦闘に敗れたイギリス軍が地引網に追い込まれた魚のように、シンガポールに流れ込んでいたことを示すように、その付近には200台以上のトラック乗用車が、一台残らずフロントガラスを射抜かれて放置してあった。
少し下の家には、まだ敵がいて自動小銃を猛射してくる。これに対して一軒一軒攻撃して取らねばならない。
ダアーンと発射音につづく砲弾がそこら中に破裂して、そのたびにザアーッと頭から土砂をかぶる。頭をもたげることも、手を動かすこともできない。眼口もあけていられない激しい砲火の連続だ。キナ臭い硝煙がもうもうと立ちこめて何も見えない。「ああここで自分も死ぬのか」
という一念以外は、不思議となんの想念もわいてこなかった。
-------------------------------------------------------------
じつはシンガポール大学とイギリスのグラスゴー大学が共同研究として上記のブキテマ高地の戦いの歴史的検証を行っており、ブキテマ高地のとりわけ「アダムパーク」の戦いを調べておられます。
その主任研究員のジョン・クーパーさんは、上記の岡さんの部隊の戦いはまさに下記の写真の家を巡る戦闘であったろうと推測されています。
c0060075_21394292.jpg

[PR]
by kkochan-com | 2010-12-05 18:18 | Trackback | Comments(0)