<   2011年 07月 ( 7 )   > この月の画像一覧

ニューギニア慰霊の旅に参加して①

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<はじめに>
 南海支隊(高知歩兵第144連隊+福山歩兵第41連隊+独立工兵第15連隊)の戦友遺族会主催のニューギニア慰霊の旅に参加しました。お世話頂いたのは独立工兵第15連隊遺族会の辻本さんと土佐パシフィック旅行の浜渦さんで、私にはニューギニアで戦死した身内がいるわけでもなく、いわゆる遺族ではありませんが福山市の議員として福山の先人が多数亡くなった場所にて慰霊をしたいと思い参加させていただきました。また「ココダの約束」の主人公である西村幸吉さん(91)が同行されることも参加の大きな動機にもなりました。なお、同様の趣旨で高知県議会議員の中西議長をはじめ大石議員、土居議員の3名も参加されており、関心の高さを感じました。

 西村幸吉さんは高知144連隊に所属し、42人の部隊でただ一人の生還者です。生き伸びるためには敵兵の人肉まで食べ、そして敵が迫ってくるなか自力で脱出できない負傷兵には自決用の手榴弾が渡されました。西村さんは彼らに「もしお前たちがここで死ぬようなことがあっても、俺たちが必ずその骨を拾って家族に届けてやる」と、これが西村さんの誓った約束だったのです。そして戦後26年間も私財を投げ打ってニューギニアに滞在し、遺骨収容に尽力されました。何が西村さんをそこまでさせたのか。「あの兵士たちは地獄に放り込まれて死んだんですよ。自分の状況を彼らと比べたら、骨を掘って26年間を暮らしたなんてなんでもない、死んだ彼らを思えば、これくらいして当然です」

 私もかねてより中国新聞の御田重宝さんの「ニューギニア地獄の戦場」等を読んでニューギニア戦の悲惨さを知り、この体験を後世に受け継がなければならないと強く感じていたところです。そのためには実際に現地に行き、戦友や遺族の方の話を聞くのが最も効果的ではないかと考えたのです。歴史を知らずして平和を語ることなかれという先人の言葉もあります。戦死者を置き去りにしたまま現在の平和と繁栄を享受している私たちは、戦後の清算を先送りしてきたと言えるでしょう。私はあの戦争の実態を後世に伝え、今後の平和に結びつけるという大きな目標を持っています。

7月15日(金)
 東京の神田に前泊し、秋葉原でレイテのリモン峠で戦った第1師団遺族会の相原さんと面談しました。探していたレイテ5万分の1地図のコピーや、私の今後の取り組みに対するアドバイスを頂きました。遺骨収集には際限が無いが「見つけた遺骨は日本に帰りたかった遺骨」と割り切れば良いとのことです。

7月16日(土)
 本日最終日の靖国神社の「みたま祭り」に出かけました。多くの屋台が出店し大変な賑わいで、若いカップルも目に付き、靖国のイメージも随分と変わった感じでした。遊就館をあらためて見学すると、今回の慰霊団が訪問する予定のブナで玉砕した安田中将の手紙や最後の決別電報が展示されていました。次に神田の古書店街に行き、マッカーサー関係の書籍を購入しましたが、マッカーサーの名言「I shall return」フィリピンへの道のスタート地点がニューギニアだったのです。
 日暮里よりスカイライナーに乗りマッカーサーを読みながら成田空港へ、すでに多くの参加者が集合していました。今回の主役、西村幸吉さんは娘の幸子さんとともに電動車いすに乗って現れ、西村ファンの皆さんと挨拶を交わしていました。添乗員を含めて総勢30人、30代から70代後半までの幅広い年齢層です。参加者の約2/3はニューギニア初訪問であり、私のように遺族ではないが個人的な興味で参加した人も多い様子です。遺族は遺児の方が多いようでした。飛行機の出発は1時間以上遅れ、離陸は23時の成田空港閉鎖時間にぎりぎり間に合いました。
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7月17日(日)
 早朝、パプアニューギニアの首都ポートモレスビー空港着、すぐさま国内線に乗り換え、4000m級の山の聳えるニューギニアの背骨であるオーエンスタンレー山脈を越え、眼下に雄大なクムシ川を眺めながらポポンデッタ着。この空港は戦時中米軍が使用していたもので、着陸時に上空から飛行機の当時の掩体壕が確認できました。また空港のターミナル(プレハブ)脇には朽ち果てた米爆撃機B25が展示されていた。
 迎えの車に分乗してラミントンロッジに向かいます。昭和26年に大爆発した「ラミントン山」が正面にそびえ、スーパーマーケットも目の前にあるポポンデッタの中心地です。ロッジの中庭には花が咲き乱れていますが、シャワーはお湯が出ず水がチョロチョロで、慰霊団ででもなければまず日本人が宿泊するとは思えない宿でした。機内泊にもかかわらず皆さん元気そうで、強い意志を持って参加しているからでしょう。ここをベースに3泊して各地の戦跡を巡り慰霊祭を行う計画です。
一休みしてミイチン・サリガリ(西村さんのアシスタント)の家へ、ここは元西村さんが住んでいた家であり、当時収集した遺品や遺骨・遺灰がまだ残っていました。これをどうやって日本に持ち帰るかも今回の課題の一つです。高知県の公共施設に展示するという案で高知県議の方が動いていました。

 昼食後、昭和17年に日本軍がニューギニアに第一歩を記したゴナ海岸へ向かいました。ここには上陸時に設営した海軍桟橋が残っていますが、その上に立ってなぜ日本軍ははるか500km以上離れたここニューギニアにやってきたかを復習しました。主な目的はオーストラリアとアメリカの間に横たわるニューギニアを押さえて、その連携を断ち切るためでした。当初は海軍の機動部隊により豪軍の拠点ポートモレスビー攻略が計画されましたが、ミッドウェー海戦により日本の空母が全滅したため、急遽陸路でオーエンスタンレー山脈を越える作戦に切り替えられました。その作戦の主導を握ったのが辻正信参謀であったと言われています。西村さんら高知144連隊第5中隊は辻参謀の護衛を命じられており、辻参謀の「モレスビーでマッカーサーを捕まえる」という言葉を聞いたそうです。福山41連隊は後にレイテでもマッカーサーと対決することになり、因縁を感じます。
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 さて、海軍桟橋から海を見ていますと、地元の子供たちが気持ちよさそうに泳いでいます。私も短パン一枚になって海に入っていくと子供たちは大喜びで、一緒に泳いだり海の中でココナッツの実を食べたりしながら交流を深めました。傍から見ていた人によればとても楽しそうな雰囲気で「福山の議員は辞めてニューギニアの議員になったほうが向いているかも?」という声も聴かれました。
 その後、オーストラリアの戦跡公園に行きましたが、ここには日本軍の高射砲が2門残されており、よく整備されていました。その他、戦勝国オーストラリアやアメリカは各地に記念碑や公園を作っていますが、多くの戦死者を出した日本のそれは数も規模もはるかに及びません。さらに現地人の2名の女性がスパイに間違われて日本兵に殺された場所にも行きました。ここで81歳のおじいさんが現れ、唱歌「日の丸」を歌ってくれたのです。♪白地に赤く 日の丸染めて あぁ美しい 日本の旗は♪ かれこれ70年近く昔に日本兵に教えてもらったそうですが、日本人とニューギニア人は同じ釜の飯を食い、同じ寝床で寝るなど「兄弟」の関係にあったそうです。対してオーストラリア人はそのような事はしないので「友達」、この微妙な差は大きいようです。戦後オーストラリアの統治から独立してパプアニューギニアが誕生した際の初代首相になったソマレ氏も戦時中に日本兵のキャプテン・シバタより日本式教育を受けたとのことです。(戦後、来日したソマレ首相と柴田元中尉は感動の再会を果たしました)
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by kkochan-com | 2011-07-22 22:18 | Trackback | Comments(2)

ニューギニア慰霊の旅に参加して②

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7月18日(月)
 4台のトヨタ・ランドクルーザーに分乗し、まず近所の日曜朝市のような場所に行きましたが、タロイモ、サツマイモ、バナナ、ピーナッツ、ココナッツ、燻製にした魚等、様々な商品がゴザの上に並べられ、活気に満ちていました。市場を後にして一路ココダに向かいます。ココダはスタンレー山脈の玄関口に相当し、ポポンデッタから約100kmですが、悪路続きで約3時間かかりました。途中、多くの橋が大雨で流されているため、ランドクルーザーは川の中にザブザブ入って渡河し、アドベンチャー気分満点です。ココダの丘はメモリアルパークとして整備されており、私たちは猛暑の中ここの慰霊碑前で慰霊祭を執り行いました。慰霊祭の流れは、①献花 ②「君が代」斉唱 ③黙祷 ④追悼文朗読 ⑤焼香 ⑥「暁に祈る」斉唱 ⑦記念撮影という流れで、この他にも、徳島の佐野さんが阿波踊りの奉納を行いましたが、阿波踊りの指導をされているだけあり素晴らしい踊りでした。私も福山歩兵第41連隊に対する追悼文を読み上げましたので、ここでご紹介します。

                            追悼文 福山歩兵第41連隊の皆様へ

 謹んで過ぐる昭和17年8月21日バサブア上陸以来、ポートモレスビー攻略作戦に参加され、祖国の為に生命を捧げられた福山歩兵第41連隊連隊長故矢沢清美大佐以下2000の英霊の皆様に申し上げます。
 皆さまがここココダに到着したのは8月26日、ここより未知のスタンレー山脈を20日分の食料と弾薬を背負っての行軍、誠にお疲れ様でした。加えて不慣れなジャングルにおける戦闘、マラリア等の風土病、その他幾多の困難を乗り越え、モレスビーの灯りが遠望できるイオリバイワに達するも無念の撤退、その心中は察するに余りあります。特に第2大隊は殿(しんがり)を務めながらの後退、お疲れ様でした。第1・3大隊から選抜された臨時輜重隊員の皆様も、高砂義勇隊や現地住民と共に糧秣や傷病兵の担送に尽力されたご苦労を労うものです。そして再びここココダに戻ってこられたのは10月4日頃とのことです。この間約40日、あの精強だった41連隊が見るも無残なほどに消耗してしまったそうですが、ここはまだ地獄の一丁目でした。この後のオイビの防衛戦、クムシ川の決死の渡河、そしてギルワの殲滅戦という地獄の戦場において、皆様は死ぬほど苦しい思いと寂しい思いをしながら死んでいったのです。どれほど祖国・故郷が恋しかったことでしょう。ご安心ください、その思いを私たちはいつまでも忘れることはありません。
 今日の福山市の繁栄は皆様の尊い犠牲の上にあるという事を福山市民は知らなければなりません。歴史を知らないということは罪なことです。ここで、祖国と福山の繁栄のために敢闘された41連隊の皆様のご遺志を無駄にしないことを誓い、ご参列の方々と共に心からご冥福をお祈り申し上げます。どうか安らかにお眠り下さい。合掌
                                             平成23年7月18日
                                         福山市議会議員 大田祐介

 
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ココダの慰霊碑の脇には日本軍の山砲の砲身が置かれていますが、これは堀井支隊長よりこれまで苦労して運んできた砲を処分し、負傷者の搬送に専念するよう命令が出され、命令に従い砲兵の指揮官・高木義文中尉が埋めた砲身です。しかし高木中尉はその場で責任を取りピストルで頭を打ちぬき自決されました。砲は砲兵の命であり、命令とは言え砲を処分するということは高木中尉にとって死を意味することだったのでしょう。現代の感覚ではとても推し量れない感情です。

 ここには戦争博物館もあり、オーストラリアとニューギニアがいかに協力的に作戦を進めたかという展示内容になっています。展示物の中には日本軍の92式重機関銃や擲弾筒があり、元擲弾筒兵の西村さんに射撃姿勢を教えていただいたりしました。付近のヤシの木にはまだ多くの弾痕が残っており、西村さんより「この崖を突撃姿勢で駆け上った」等の証言を聞きながらココダの戦場跡に立つと、ここから始まるスタンレー山脈を越えポートモレスビーに至る「ココダトレイル」をぜひ踏破したいという気持ちが湧いてきました。オーストラリア人にとっては「ヴィクトリーロード」にあたり、年間に何百人という人が約1週間かけて踏破しているそうです。日本人もこの道を辿り、先人の苦労を偲ぶという経験が必要ではないでしょうか。現地の住民と話をしていると「私の息子はココダトレイルのガイドをやっている」という人がおり、来年はぜひガイドしてほしいと名刺を渡して別れました。

 ココダを後にして41連隊が後退時に防衛陣地を築いたオイビを通り、ワージュという部落(日本軍はバリイベと呼んだ)に寄りました。ここは144連隊が防衛陣地を築いた場所で、ここでも西村さんは多くの遺骨を収容しました。部落における西村さんの人気は絶大で、おかげで私たちも大歓迎を受けました。西村さんはただ単に遺骨を掘っただけではなく、現地住民に溶け込み、道路整備や学校建設等のできる限りの支援を行ったそうです。ここでも慰霊祭を執り行いましたが、場所は日本兵のタコツボ陣地跡の前で、タコツボを現地の方がまるでお墓のようにきれいに整備してくれていました。西村さんはここで元上官の弁当箱を掘り出しましたが、その弁当箱には西村さん自身が彫った上官の名前が刻まれており、しばらく体の震えが止まらなかったそうです。高知県議をはじめ高知出身者による「よさこい」の斉唱もあり、慰霊祭はとても良い雰囲気で終了しました。
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 ワージュを後にして日本軍の撤退路に沿ってクムシ川に向かいました。クムシ川は幅100mほどもある急流で、渡河点はすでに豪軍の手に落ちて渡れないと判断した41連隊の小岩井少佐は左岸沿いに撤退するよう指示しました。しかし実際には渡河点では工兵がワイヤーロープを渡し、小舟で往復しており、西村さんら144連隊の第5中隊が押さえていたそうです。西村さんらは41連隊が来るのを待っていたが、慎重な小岩井少佐の誤判断により待ちぼうけを食い、仕方なくワイヤーを切断して後退したそうです。渡河点を避けて迂回した41連隊はクムシ川をイカダで渡ろうとして多くの将兵が命を落とし、南海支隊の堀井支隊長もカヌーで川を下り海まで出たところで転覆して亡くなっています。いずれにせよ小岩井少佐の判断が悪かったのは現地の情報の少なさもあり、結果論とも言えるでしょう。ここで福山の石井様から託された写経と花輪と41連隊の卒塔婆をクムシ川に流しました。

 ニューギニアは赤道近くにあるため、1年中夜明けは6時、日没は18時です。夕やみ迫る中、ポポンデッタ近くのサンガラミッションという教会に寄りましたが、この近くで日本兵に協力したという容疑で400人の現地住民がオーストラリア軍により処刑されたとのことです。それも苦しい絞首刑であったとのことです。西村さんがその霊を慰めるために教会の敷地内に慰霊碑を建てられていました。決して戦史の表には出てこない話でしょう。
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by kkochan-com | 2011-07-21 22:23 | Trackback | Comments(0)

ニューギニア慰霊の旅に参加して③

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7月19日(火)
 今日は南海支隊全滅の地ギルワ・ブナ方面の慰霊祭です。慰霊ツアーの日程の中でも最も重要な一日となりそうです。出発前にオロ州の前知事ニューマン・モンガキ氏がロッジに現れ、西村さんとの再会を喜んでおられました。西村さんは遺骨収容を円滑に進めるため、ポポンデッタの発展に随分と協力してくれたそうです。一行はまずはギルワを目指しますが、道路事情は悪く車の天井に頭を打ちつける悪路の連続です。ようやく着いたギルワの慰霊碑周辺は現地住民によりきれいに草刈がされ、慰霊碑には花が飾られていました。西村さんによればここは144連隊本部跡地であり、ここから300mほど離れた場所では豪軍のM3戦車に対して爆雷を抱えた日本兵による肉薄攻撃が行われたそうです。爆雷ごと戦車のキャタピラの下に飛び込んだり、戦車に飛び乗って天蓋を開けて手榴弾を投げ込み戦車を撃破し、戦車に積んだ砲弾が次々と誘爆して花火どころではない大爆発だったそうです。

 ギルワにおける慰霊祭で読み上げられた追悼文は涙なくしては聞けませんでした。田村さんは「お父さん、やっと迎えに来たよ。一緒に帰りましょう」と呼びかけ、田村さんの姉の近藤さんは、お父さんが戦地から娘たちに送ってくれた手紙を朗読されました。姉妹の父の竹下牛松兵長は東山信彦少尉の部下であり、数奇な運命を経て戦後48年ぶりにオーストラリアから帰ってきた東山少尉の陣中日記の中に竹下兵長の活躍が度々記されていたのです。東山少尉と竹下兵長は上司と部下の関係を超えた絆に結ばれていた様子で、竹下兵長は負傷した東山少尉のために壕を掘り、同じ壕の中で1分間に数百発という猛砲撃に耐え、常に東山少尉を支えてきました。ギルワ陣地の末期が迫った頃、東山少尉は潜水艦で陣地を脱出する誘いを受けましたが、部下を残して自分一人が脱出するわけにはいかないとして誘いを断り、静かにジャングルの中に消えたそうです。これらは「祖国はるかなれども ニューギニア戦 ブナ日記 東山信彦遺稿集」に記載されています。そして姉の近藤さんは10年前にもこの地を訪問されていますが、その時に現地に預けた遺稿集が大切に保管されていることを知り、感激されていました。
 同様に遺族の花井さんも昭和37年に父・倉橋一美さんの日記がオーストラリアから返還されました。読ませていただくと「妻子を残しては死ねない、絶対に生きて帰る」と記されており、妻子を想う気持ちが痛いほど伝わってきます。このように戦地における様子が遺族に伝わることは本当に稀なことであり、霊魂というものはやはり存在するのではないかという確信に近いものを感じました。

 ギルワの後は野戦病院跡であるサナナンダにも行く予定でしたが道が悪いのであきらめ、海路ブナに行く予定も変更となり、またしても行きの悪路を戻りブナに向かいました。高齢のご遺族にとっては本当に大変だったと思います。ブナは海に面した美しい部落であり、ここが昔戦場であったとはとても想像できません。ブナは西村さんによれば仲の悪い陸軍と海軍が一致団結して戦った稀に見る戦場で、144連隊連隊長の山本大佐が戦闘指揮を執り、海軍陸戦隊の安田大佐が弾薬補給等を担当したそうです。両指揮官ともに人格者であり、後方の安全地帯にあった司令部を前線に出すなど、指揮官が先頭に立った様子が伝えられています。
 そしていよいよブナ守備隊最後の日となった昭和18年1月2日、山本連隊長は豪軍を前にして「日本語のわかる者は前に出よ」と呼びかけました。そして落ち着いた声で語りかけたそうです。「今君達は勝ち誇っている。物資をやたらに浪費してわれわれを圧倒した。わが軍は一発の弾といえども粗末にはしなかった。今に見よ、必ずや日本が勝利を得、正義が世界を支配するに至るであろう。私を撃つのはしばらく待て。日本軍人の最後を見せてやるからよく見ておけ。大日本帝国万歳。天皇陛下万歳。万歳。万歳」ここで切腹され「さあ撃ってよろしい」。そこで敵の一斉射撃が起こり戦死されたのです。戦争に「たら・れば」を言ってもしかたありませんが、元日本兵の多くは「弾と食料があれば決して負けなかった」と証言されています。
 戦後、サナナンダに粗末な戦争博物館ができ、日本兵の頭骸骨が見世物として長期間にわたり展示されていました。その頭骸骨は銀の入れ歯をしていたことから山本連隊長のものである可能性が高く、関係者の強い働きかけによりつい先日返還され、千鳥ヶ淵の墓苑に収められたそうです。
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 ブナの部落の皆さんは私たちを伝統的な踊り「シンシン」で迎えてくれ、やはり慰霊碑は花で飾ってくれていました。ブナの慰霊碑は昭和30年に政府の遺骨収集船「大成丸」により建てられ、題字は吉田茂首相によるものです。しかし、パプアニューギニアが独立して以来、慰霊碑の建つ土地にも固定資産税がかかるようになり、それを日本国政府に代わり西村さんが負担してきたそうです。何度も大使館等に掛け合いましたが未だに政府は知らぬ・存じぬという姿勢であるということです。本当に情けない話です。ブナの慰霊祭で私は府中市生まれの安田義達大佐(死後中将に昇進)の追悼文を読み上げましたので、以下に紹介します。

                          追悼文 安田司令以下ブナ守備隊の皆様へ

 本日、ここ激戦地ブナにおいて南海支隊戦友遺族会による慰霊祭を執り行うに当たり、謹んで祭文をささげます。
 顧みれば、ブナ守備隊の皆様は昭和17年11月19日から米豪連合軍の攻撃開始から、翌18年1月2日に玉砕するまで戦い抜かれました。とりわけ海軍の横須賀鎮守府特別陸戦隊司令の安田義達中将は、私の住む福山市の北隣の府中市のお生まれであり、先日、安田中将を敬愛する後藤慶四郎様のご案内により金竜寺にお墓参りに行かせていただきました。
 安田中将は横五特292名、佐世保鎮守府第五特別陸戦隊110名、第十四設宮隊399名の指揮を執られました。その初戦の敢闘に対してマッカーサーは指揮官ハーディングを攻撃精神に欠けるとして解任し、後任者アイケルバーガー中将に「ブナを取らねば生きて帰るな」と厳命したそうです。12月末には福山歩兵第41連隊矢沢大佐率いる救援隊がブナに向かうも間に合わず、安田中将は「皇国の隆昌と各位の武運長久を祈る」という決別電報を打って最後の突撃を敢行し果てられました。
 安田部隊の全滅こそが昭和18年5月のアッツ島守備隊玉砕に先立つ太平洋戦争における最初の玉砕でした。オーストラリア戦史には「戦闘が終わり日本軍陣地を点検しうるようになってみると、人間というものが、どうしてこんなひどい環境に耐え忍ぶことができるのか、しかも生存しうるのかと疑わざるを得なかった」と記載されています。戦友の屍を盾にし、皆さんは祖国にため家族のために最後まで死力を尽くして戦われました。戦いに敗れたとはいえ、米国公刊戦史をして「世界第一の猛闘 (Toughest Fighting in the World)」と言わしめたその健闘は誇るべきものです。
 現在の祖国・日本の現状は、安田中将をはじめ英霊の皆様の戦いに恥じない国造りが行われたとはとても言い難い現状にあります。私たちはこのブナの地において皆様の霊の安らかならんこと祈念しつつ、改めて日本国の再建に向けて取り組む覚悟であることをお誓い申し上げ、追悼の言葉とさせていただきます。
                                             平成23年7月19日
                                          福山市議会議員 大田祐介

 続いて遺族の川添さんが追悼文を読みました。「お父さん、戦後近所のお友達が戦地から帰ってきたお父さんの自転車の後ろに乗せてもらっているのを見て、私はお母さんに言いました。私もお父さんが帰ってきたら自転車に乗せてもらうの。まだ若かった母はそれを聞いて号泣したそうです。そして親戚や近所のおじさんたちが、よっちゃん自転車に乗せてやろうと言っては、あちこちにサイクリングに連れて行ってもらいました。こんなに皆さんからかわいがってもらった私ですから、人一倍幸せにならないといけませんよね。今、子供達も巣立ち私はとても幸せです。」ヤシの木が風にざわめき、波の音とともに心地よいハーモニーを奏でていましたが、川添さんは「お父さんもこれを聞いたはずよ」と私に話してくださいました。
 最後に高知県議の中西議長より高知県知事から西村さん宛ての感謝状が手渡されました。今回訪問した激戦地の多くには高知県の慰霊碑があったのに対して広島県や福山市の慰霊碑は皆無であり、同じ南海支隊とはいえ随分と温度差を感じました。

7月20日(水)
 今日はいよいよ帰国の日です。5時半起床で荷造りと朝食を済ませポポンデッタの空港に向かいます。ところがポートモレスビーから来るはずの飛行機がいつまでたっても現れず、結局2時間ほど待つことになりました。ニューギニアでは何が起こるかわからない、日本の常識は通用しないと聞いていましたのでそれほど驚きませんでした。待っている間にいかにもココダトレイルを歩いてきたような3人組に声をかけるとやはりそうでした。3人はアメリカのテネシーから来たそうで、素晴らしい経験だったそうです。
 飛行機が遅れた関係でその後の予定はかなりタイトになり、土産物購入はキャンセルして日本大使公邸に向かいました。一行は橋大使より歓迎の挨拶を受け、なごやかな雰囲気で意見交換が行われました。橋大使は多くの日本の若者たちにニューギニアの戦跡を訪れてもらう計画を練っておられたので、私からぜひココダトレイルツアーをやりたいと提案させてもらいました。大使曰く、ニューギニアには親日家が多く、ブーゲンビル島ではあの山本五十六大将にちなんだ「ヤマモトロード」も作られているそうで、何事も非常にやりやすく感謝しているとのことです。天然ガス等の地下資源も豊富であり、ぜひ大使が先頭になって日本との交流をさらに発展させていただきたいものです。ちなみにポートモレスビーの空港は日本のODAにより建設されたそうです。空港で慌ただしくお土産を買い、14時の飛行機で一路成田に飛び立ちました。台風を避けながら成田には21時頃到着し、その日は空港近くのホテルに宿泊しました。
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7月21日(木)
 大きな荷物はホテルから宅配便で送って身軽になり、神田駅前のタマキスポーツに寄った後、千代田区役所隣りのエアニューギニア日本支社を訪問しました。島田支社長に今回の慰霊団の様子をお知らせすると喜んでいただけました。その後、千鳥ヶ淵戦没者墓苑に行き花を手向けてきましたが、これで今回の旅の締めくくりができたように感じました。皆さんも東京に行かれた際はぜひ千鳥ヶ淵を訪れることをお勧めします。そしてそこに収められた無名の(引き受けてのいない)約240万人分の海外戦没者のご遺骨に心からの哀悼の誠をささげていただきたいものです。私は今回の経験をより多くの方に伝え、ニューギニアの戦没者に対して少しでも関心を持ってもらうことが今後の使命であるように感じています。
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by kkochan-com | 2011-07-20 22:29 | Trackback | Comments(0)

鞆「お手火」神事に参加

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昨夜は鞆の「お手火」神事に参加させていただきました。
今年は道越町が当番で、私が道越に「ありそ楼」をオープンしたご縁で道越の若い衆に混ざってお手火を担がせていただきました。
まず港沿いの道越会館で景気づけに一杯飲みました。この時、タコを食べると足が地に着いてケガをしないそうです。(よく石段を踏み外したりして怪我人が出る)そして祇園さんに行く前に海に浸かり体を清めます。
鞆の知り合いにも多数お会いすることができましたが、私がお手火を担ぐというと一様に驚かれました。担ぎ手の周りには掛け声をかけたり、足元の注意をしてくれたり、ドンゴロスを頭からかぶせて水をかけてくれたり、様々なサポートをしていただきました。ありがとうございました。
それにしても貴重な経験をさせていただきました。鞆の伝統文化の一端に触れることができうれしく思いました。
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by kkochan-com | 2011-07-10 20:20 | Trackback | Comments(0)

レイテ島・歩兵第41連隊の戦跡を訪ねて①

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                      <登山口より517高地を遠望す>
平成23年6月26日(日)
午前3時福山発、岡山インターより関空行き高速バスに乗車、8時関空着。10時発フィリピン航空407便にてマニラ、国内線に乗り換え17時タクロバン着。タクロバン市内ホテル「ラ・リーカ」に投宿。
一行は私と曽我部光氏(大門地域歴史研究家)と藤原平市議、現地コーディネーターのカルメーラ・アケヒラ女史の4人であるが、現地ではそれぞれ自由行動を取り戦跡調査は主に私一人で行った。

6月27日(月)
6時30分にタクロバンのホテル出発し、昭和19年10月20日に米軍が上陸したパロの町を経由して、当時の米軍の進撃ルートに沿いオルモック方面に向かって車は走る。道中のハロ-トンガ間は、10月30日に炭谷連隊長率いる41連隊とニューマン大佐率いる米軍の歩兵第34連隊とが遭遇戦を演じた場所である。タクロバンを守備する16師団の援軍として10月26日にオルモックに上陸した41連隊(第1・第2大隊)はゲリラの妨害に悩まされながらもリモン峠を越え、カリガラ平野をタクロバンに向けて前進中であった。
ハロ-トンガの戦闘は2日間にわたったが、米軍の105mm榴弾砲による猛烈な砲撃と日本軍の戦車と比較すれば怪物とも言えるM4シャーマン戦車により41連隊は蹂躙された。しかし、41連隊も37mm速射砲で反撃し、2両のM4戦車を撃破した状況は米軍戦史により「レイテにおける最も効果的な速射砲射撃であった」と評価されている。なぜなら日本軍の37mm速射砲ではM4の分厚い装甲を貫くことはできず、戦車砲の砲口に命中させ内部で爆発させたからだ。まさに針に糸を通すような正確さである。

さらに道路を横切る小川の対岸や周辺の丘に機銃座を構え激しい攻撃を加え、指揮官ニューマン大佐も腹部に重傷を負って後送されている。31日夕刻に連隊本部の置かれたトンガ小学校に後退してきた兵士の多くは傷付き、兵力は半減し惨憺たる状況であったという。炭谷連隊長は夜半の雨にまぎれてカリガラ方面に後退を指示し、平地では勝負にならないとの判断か、山に籠り体制を立て直すとともに援軍を待つとして11月1日に西方の517高地に陣地を設けることとした。そして約50日間この山域に立てこもり、12月23日頃に更に半減した兵力でもって西方のマタコブ・カンギポット方面に転進して行った。
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                            <41連隊本部が置かれたトンガ小学校>
今回のレイテ訪問の最大の目的はこの517高地(現地名Mt.Minoro)周辺における戦跡の探索である。レイテ戦における41連隊の生存者は僅少(一説には15名)であり、将校唯一の生存者であった佐々木寛平大尉の記憶も曖昧で、この地における日本側の記録は極めて少ない。戦後、遺骨収集等で関係者が訪れた記録も無く、まさに歴史の闇とも言える部分であり、苦闘した41連隊の将兵の気持ちを考えるとなんとかその健闘を称え、霊を慰めたいと思うのである。幸い41連隊が指揮下に入った102師団参謀の金子少佐の手記に、前線の推移を説明した図が載っている。また、参謀長の和田大佐の日記に11月20日の時点で「41連隊は600人に減じ、西田大隊(第1大隊)はピナ山にあり、正岡大隊(第2大隊)は716高地、連隊本部はその中間、田辺大隊(独立171大隊)は517高地」という配置が記されている。私はこれらの資料と米軍の資料を参照しながら41連隊の陣地や戦闘経過について現地の山に実際に登って推察を行った。

我々は8時にカリガラ平野西端のカポーカンに到着し、カポーカンの役場に隣接した警察署に行きミノロ山(517高地)登山の警備を依頼した。これは前日に登山口の下見に来た今回の旅のコーディネーター・カリーさんの手配によるもので、日本人が山に登り何かあってはいけないという配慮から武装警官5名が同行してくれることになっていた。そして登山口にある集落の顔役に案内人を頼み、9時にミノロ山に向けて出発した。現地に登山という文化は無く、道はヤシ林を管理するための道、いわば農道である。そのため頂上は一向に近づかず、警官は各自がM16ライフルを構え、汗をかきながら登っている。1時間余り登って中腹に達した場所で休憩を取り、そこから先は私と現地案内人だけで登ったが、やがて道は無くなり標高350mの地点で引き返さざるを得なくなった。約3時間、大汗をかいただけでこれといった成果も無く、初日の山登りは終了した。

12時に下山した私は現地案内人と密かに明日も山に登ることを約束し、警官たちに礼を言いカポーカンを後にした。そしてリモン峠の慰霊碑に寄り、山で食べるはずだったお弁当を食べ、慰霊碑の近くに住む親子との交流を深めた。彼らと会うのは3回目であり、その都度記念写真を撮っている。そして再会した際に前回の写真を渡すのである。その後、リモン川の川べりに降りたが、血染めの川は今では子供たちが水遊びをするのどかな川であった。オルモック街道に沿って工兵碑に寄り、リボンガオ三叉路を右折、マタコブを経由して41連隊終焉の地ビリヤバに着いた。もう表記がすっかり消えてしまった41連隊の慰霊碑を参拝し、管理人にささやかな心付けと昨年訪問時の住民を含めた集合写真を渡した。しかし、この慰霊碑は建立後十数年にもかかわらず施設の荒廃が著しい。福山の関係者にはその旨を伝えているが訪問するたびに慰霊碑は劣化する一方である。慰霊碑を建てることが目的になってしまい、その後の管理ができていない典型的な例と言えるのではないか。

その後、ビリヤバの海岸に出て、はるか遠方のセブ島を望見した。双眼鏡にうっすらと島影が映り、どんなにあの島に渡りたかったかという将兵の気持ちを推し量った。この地に集結した1万人以上の日本兵の中からセブに脱出できたのは第1師団1000名弱であり、41連隊将兵は来る日も来る日も船が来る日を待ち続けたに違いない。昭和20年の2月頃になってもう船は来ないと悟った将兵はカンギポット山周辺に追い詰められ、徹底した米軍の砲爆撃と掃討により終戦後にこの山から生きて出てきた日本兵はいなかったと伝えられている。栄養失調と病気により戦闘能力を失った日本兵に対してこれは虐殺と言っても過言ではない。

時間があったのでオルモックのコンクリートハウスに寄ったが、67年を経てなお壁の弾痕も生々しく原爆ドーム並みの迫力だ。さらにアルブエラ市役所前に展示してある日本軍の二門の野砲を見学した。敵に使用させないために自爆させた野砲は砲身が大きく裂けており、砲兵の無念さを感じさせるに十分である。宿泊はオルモックのサビン・リゾートホテルであり、今まで泊まったレイテ島のホテルの中で最も質の高いホテルであった。部屋でマッサージをお願いし、明日に向けて体調を整える。
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by kkochan-com | 2011-07-03 20:29 | Trackback | Comments(6)

レイテ島・歩兵第41連隊の戦跡を訪ねて②

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6月28日(水)
6時半にホテルを出発し、車中で朝食のマフィンを食べながらカポーカンに向けて車を走らせる。8時に登山口に到着するも何やら住民間で協議を行っており、結局出発は9時になった。案内人は3人に増え、さらにカリーさんの弟リンゴがサポートについてくれ、我々調査隊は総勢5人のチームとなった。結局ミノロ山頂上への道は無いということで、さらに奥の片道4時間かかる「ジャパニーズ・ホール」に案内してくれると言う。4時間かかるなら食料が必要なので、何かビスケットのようなものとミネラルウオーターを集落のサリサリストア(雑貨屋)で買うように指示し出発した。

台風一過のレイテはうだるような暑さで、マラリア蚊を心配して長袖のツナギを着た私は全身から汗がしたたる。現地人はTシャツに短パン、腰には鉈を長くしたような蛮刀を差し、足元はなんとビーチサンダルである。私はグリップ力を増したトレイルランニング用の靴を履くが、彼らはその差はほとんど感じさせないスピードで粘土質の滑りやすい山道を登っていく。福山山岳会では十指に入る健脚を自負する私がついていくのが精一杯であった。やがて高度計は500mを示し、ミノロ山の頂上とほぼ同高度の場所にある現地人の小屋に着いた。このような山奥でバナナの栽培や焼き畑耕作をしていることに驚かされる。私はこの時点でかなり消耗しており、しかも登山口で買ったビスケットとはクラッカーであり、乾いたのどを通らなかった。日本軍の携帯食料であった乾パンも同様にのどを通らなかったに違いない。しかし、そこからがなお一層大変であった。案内人は道なき道の蔓や草木を蛮刀で切り開きながら、急峻な山をほぼ直登していくのである。しかもうっかりつかんだ木には一面トゲが生えており、泣く思いでジャングルをかきわけ、ようやく頂上らしき場所に到着した。木が生い茂り見通しはまったくきかない。しかし、そこには円形の穴が点々と掘られた形跡があり、まぎれもない陣地跡であった。

私はがぜん携帯シャベルを組み立て、タコツボ陣地の中に入り掘り始めた。ジャングルの木が縦横に根を張っており掘りにくい事このうえない。ほどなく茶色の小ビンが出てきた。また別の少し大きめの壕から軍靴の靴底を掘り出した。この靴の続きに遺骨が埋まっている可能性も考えて掘ったが、それ以外の物は出てこなかった。ここで案内人がさらに奥地に「ジャパニーズキャンプ」があると言い出した。しかし、私は体力的に限界に達していたし、これ以上進むと今夜のスケジュールに支障をきたすことは明らかであった。13時、後ろ髪を引かれる思いで下山にかかった。なお、この場所は517高地の尾根続きとなる通称692高地、現地名でMt.Badianと思われ、ハンディGPSで計測したところ北緯 11°14′52.6″ 東経 124°37′44.4″ 標高675mであった。

下山中、突如視界が開けたと思うと、なんと火の手が上がっていた。焼き畑である。なるほどジャングルに砲爆撃を受けた場合、同様に山肌が焼けただろうし戦場感覚を体験することができた。しかし、いよいよ足取りは重く果たして無事に下山できるか不安を感じだした頃にヤシ林に出た。そこで案内人がヤシの木に登りココナッツの実を取ってくれたが、1個当たり500㏄程度入っている実を2個飲み干した。完全に熱中症に加えて脱水症状であり、普段飲めば生臭いだけのココナッツジュースがまさに甘露というかスポーツドリンクであったし、果肉のコプラも削って食べて元気を取り戻すことができた。日本兵たちもどれだけココナッツの実に命を救われたことであろうか。15時に疲労困憊状態で下山したが、しばらくは口をきくのも億劫であった。案内人たちが「戦後この山に登った日本人はおまえが初めてだ」と褒めてくれた。

出土品を水洗いして観察すると、ビンは大きさや口の形状から薬瓶らしく米軍のものと推定された。同様に軍靴もサイズが大きく英語表記があったことから米軍のものと推定された。692高地は両側が切り立った尾根上にある戦術的には好位置であり、米軍陣地であったのか、もともと日本軍陣地(おそらく41連隊)があって米軍に占領されたのかは定かでないが、このような奥地で戦闘が行われたこと自体に驚かされた。
本日夜から明日にかけてタクロバン市最大の祭り「サンヤウフェスティバル」が開催され、前夜祭に参加した。サンヤウとは現地語であるワライワライ語で「楽しいことを分け合いたい」という意味であり、マニラからかのイメルダ夫人の息子であり次期大統領とも目されるフェルディナンド・ボンボン・マルコス国会議員がゲストとして招聘されており、華やかなムードであった。

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6月29日(水)
 歓迎昼食会を経て祭り最大のイベントであるパレードを観覧した。我々はアルフレッド.Tロマルデス市長、市長夫人であり元映画女優であるクリスティーナ.Gロマルデス市議、前夜お会いしたマルコス議員らと並ばされVIP待遇であった。先に紹介した3人は市民より大変な人気を博し、多くの市民が写真を撮っていた。特にクリスティーナ夫人には華があり、場を盛り上げる力を持っていた。なお現市長はイメルダ夫人の甥であり、祖父の兄弟であったダニエル.Zロマルデス州知事(タクロバン空港の名前にも冠されている)は昭和40年代のまだ日比関係が良好でない時期に日本兵の遺骨収容に尽力された方であり、レイテ出身のイメルダ夫人とも深い繋がりがあったと想像される。
福山市とタクロバン市は親善友好都市となって31年目となるが、行政間の交流は行われず、我々タクロバン福山交流支援センターが核となり交流再開に努めてきた。そのような努力をロマルデス市長も評価してくれているであろうし、この祭りに象徴されるタクロバン市のエネルギーを共有できればどれだけ福山市が活性化することであろうかと感じた。
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by kkochan-com | 2011-07-02 20:35 | Trackback | Comments(0)

レイテ島・歩兵第41連隊の戦跡を訪ねて③

6月30日(木)
6時にホテルを出発し、レイテ滞在最終日の今日は案内人の言う「ジャパニーズキャンプ」にチャレンジすることとした。朝食はフィリピンのファミリーレルトラン「ジョリビー」でしっかりと食べ、余りはパックに詰めて昼食とした。次に行動食となるチョコレートバーとミネラルウオーターを大量に買い込み、案内人各自に持たせた。さらに今日の私のスタイルはTシャツ+短パンであり、日に日に現地住民に近づいていった。
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8時に登山口を出発、今日は長丁場になること確実である。うれしいことに犬2匹が前後して付いてきて我々をガードしてくれている。一昨日の道をたどり、途中標高600m前後の稜線にて案内人が「以前、ここにスタンド付きのマシンガンがあった」と説明してくれた。おそらく41連隊の92式重機関銃と想定され、4人がかりで運ぶ重機関銃をここまで持ち上げたその労力を偲ばずにはおられなかった。登り始めて3時間、適時休憩を取りエネルギーと水分を補充しながら前回よりはるかに楽に692高地下部を通過し、その約500m西方に目指すジャパニーズキャンプはあった。その地点のデータは、北緯 11°14′33.7″ 東経 124°37′30.5″ 標高690mであり、まさに102師団参謀長の和田大佐が正岡大隊(41連隊第2大隊)布陣と日記に記した716高地、米軍の言うところのHill 2348だ。そしてそこには無数の塹壕跡があったのである。

ここで30師団(豹)41連隊のレイテにおける指揮系統を説明すると、当初タクロバン守備隊の16師団(垣)の援軍としてミンダナオから派遣された41連隊は16師団に参入される予定であった。しかし、ハロの遭遇戦により合流はかなわず、同行した102師団(抜)の天兵大隊や独立169連隊・独立364連隊とともに脊梁山脈において持久戦に入ったことからピナ山(Mt.Pina 728m)に司令部を置いた102師団の傘下に入った。後にリモン峠攻防戦の主力となった第1師団(玉)の輜重隊から若干の補給を受けたとも推定されている。

米軍の戦闘記録によれば、10月20日にマッカーサーと共にパロ海岸に上陸した第12騎兵隊はレイテ島の脊梁山脈にあたるこの困難な地域の攻撃に振り向けられ、11月15日にHill 2348における血生臭い戦いが始まったと記されている。日本軍の物資補給ラインを寸断し、決死的な日本兵の攻撃を退け、12月2日の夜ようやく丘を占領したが、米軍も241人の戦死者を出したとのことである。
一方で102師団参謀の金子少佐の手記によれば11月下旬の戦況として「41連隊はいぜん716高地北方高地を占領し、敵と数十メートルを距てて戦闘中にして、わが損害は兵力の約半数なり。716高地は配備なく、一部の敵逐次侵入し41連隊側面は危殆に瀕しつつあり」と、41連隊の苦境が記されている。
41連隊は517高地正面カポーカン方面の敵のみならず後方側面からも攻撃を受けていた。米軍の記録によれば11月16日にカポーカンに位置した第112騎兵隊にミノロ山(517高地)攻略の命令が下されている。第112騎兵隊は11月22日まで山麓をパトロールしたが、おそらく山頂はパスして30日にかけて西進し、その際に41連隊と思われる日本兵の散発的な抵抗に遭ったと記されている。
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さて、手分けして塹壕跡を掘り出した。まもなく案内人の一人より声が上がり薬莢が出土した。思わずつかむと、薬莢は砂が崩れるかのようにバラバラに砕け67年の歳月を感じさせた。その後も多くの薬莢、少数の銃弾が出土したが、弾丸の口径は約7.7mmであり日本軍のものか米軍のものか判然としない。いずれにせよここで激しい戦闘が行われてことを裏付ける品である。そのうち錆びた鉄棒が出土し、土を払うと一部に銅製の帯が巻いてあった。これはおそらく日本軍の銃剣か刀の付け根に付属した「ハバキ」と推定される。41連隊将兵の苦闘の証拠の品であり、よくぞこのような奥地のジャングルで、弾薬はおろか食料の補給さえない状況で健闘したと言わざるを得ない。おそらくは東部ニューギニアにおけるジャングル戦の経験を生かし、ゲリラ戦でもって対抗したと考えられる。

数日間好天に恵まれていたが12時半頃ついに雨が降り出した。発掘は中止し、案内人がヤシの葉を切って急ごしらえのセブリを作ってくれた。日本兵たちも同様に雨宿りをしたことであろう。もう少し時間があれば周辺にあったとされる洞窟も探索したかったところだったが、残念ながら入口を発見することができず、また雨は止みそうもなく、協議の末下山することとなった。雨で道はぬかるみ、案内人たちは裸足で歩きだすのを見て、このような山岳地帯での戦闘において現地住民の協力は不可欠と感じた。彼らは山中の道や食料について熟知しており、日本兵が誤って食べて口が痺れた「電気イモ」についてもよく知っていた。日本と同じワラビが生えていたのも印象的であった。また、山中には樵(きこり)も存在し、製材した大きな材木を肩に担いで下山している樵にも出会った。米軍は現地住民を宣撫し、弾薬運搬や道案内に使ったのではないか。そしてそれは強力な支援となったであろう。
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15時に下山したが、戦後の日本人の誰も行ったことのない激戦地692高地および716高地の陣地跡探索を果たし、心からの充実感をかみしめた。心残りは517高地の頂上を踏めなかったことである。しかし、現地案内人との繋がりもできたので、今後継続して調査することも可能であるし、多数埋まっているはずの遺骨の収容にも発展するかもしれない。戦後はじめてこの山を訪れた日本人を英霊たちはどのように感じてくれたか定かではないが「遅い」と感じていることだけは間違いないであろう。その責任を取ることに「今さら」ということは無いはずだ。来年は金属探知機等を揃え、より体制を整えて詳細な現地調査を行いたいと考えている。

7月1日(金)
前夜のサヨナラパーティーで出されたヤシ酒を飲み、ホテルに帰ってから下痢が止まらなくなったために飲まず食わずで帰国するはめになった。しかも、荷物には多くの出土品とお土産が入り重量オーバーとなり追加料金を払わされた。いずれにしてもこれらは旅の最終日のことであり、滞在中はコーディネーターのカリーさんと、41連隊の英霊たちがすべてにおいて良い方向に導いてくれたものと感謝している。
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by kkochan-com | 2011-07-01 20:40 | Trackback | Comments(0)