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シンガポール・マレー半島の福山歩兵第41連隊の足跡を訪ねて①

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平成23年8月30日(火)出発
 今回の旅は福山歩兵第41連隊の戦跡巡り最終回「マレー作戦編」であり、まったくの一人旅だ。朝一番の新幹線に乗り、広島で乗り換えて博多で下車。地下鉄で福岡空港に向かい、シャトルバスに乗り換えて国際線ターミナルに9時前に到着した。飛行機(シンガポール航空)の出発は10:15なので出発間際だが、事前にインターネットチェックインを済ませているので、荷物(折り畳み自転車)を預けるだけ。しかし、福岡空港のセキュリティーチェックは厳しく、両替等を済ませば搭乗までの時間的余裕は少なかった。
 機内ではJTBの駆け出し添乗員さんの隣となり、旅の話やJTBによる町おこし支援策等について話しながら楽しく過ごすことができた。シンガポールは雨模様の天気であり、タクシーでリトルインディア地区にあるホテル・ディックソン81に向かう。運転手に明日の朝7時30分にホテルに迎えに来てくれるよう念を押して下車した。ホテルにチェックインして早速持参した自転車を組み立ててダウンタウンを走ってみた。自転車は(有)バイク技術研究所製のYS-11というモデルで、国産旅客機YS-11製造会社(日本航空機製造)に2年、トヨタ自動車に30年以上のクルマ開発経験を生かして製作されたそうだ。14インチの小径ホイールにアルミフレームの組み合わせで3段変速機内蔵にもかかわらず重量は10kg以下に抑えられている。なぜ自転車を持参したか、その理由は69年前にタイムスリップするためだ。
                        「Gemencheh River Bridge」
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    マレー作戦において、第5師団(広島11連隊・福山41連隊・浜田21連隊・山口42連隊)は従来の馬で大砲を引き、歩兵が徒歩で行軍するというスタイルから「機械化」され、自動車部隊+戦車、歩兵は自転車に乗って進軍した。この自転車部隊は通称「快速部隊」とか「銀輪部隊」と呼ばれ、12月8日にマレー半島の付け根シンゴラ(タイ領)に上陸した日本軍はわずか69日後の昭和17年2月15日に東洋のジブラルタルと呼ばれたシンガポールを陥落させた。まさに「マレー電撃作戦」と称される大東亜戦争初期における大勝利であった。
 夕食は中華料理店でシンガポール在住の方と夕食を伴にし、歴史認識等について意見交換をした。シンガポール占領後に日本軍による「華僑粛清」が行われたとされているが、本当に「粛清」つまり皆殺しであったのか? 非常にデリケートの問題だが『日中戦争いまだ終らず マレー「虐殺」の謎・中島みち』によれば、敵性華僑つまり抗日ゲリラ掃討が目的であり、無垢の市民の無差別大量虐殺が目的ではなかったとしている。この著書は緻密な取材を積み上げ中立的な視点で書かれた大変な労作であり、すでに絶版であるが一読されることを勧める。

8月31日(水)激戦地ゲマスを訪問
 今日はマレー鉄道(KTM)に乗り、41連隊がオーストラリア軍の待ち伏せ攻撃を受けて大損害を被ったマレーシアのゲマスに向かう予定だ。ホテルからシンガポールの駅「ウッドランズ・トレインチェックポイント」まで送ってもらおうと昨日のタクシーを待つが10分過ぎても現れず、仕方なく流しのタクシーを拾おうとするが朝のラッシュ時であり空車は見当たらず!かなり焦ってきた頃にやっと乗車することができた。ウッドランズには発車35分前の8時10分に到着したが、間もなく出国審査が始まりその後マレーシアの入国審査を通過して列車に乗り込んだ。発車後間もなくジョホールバルに架かる橋「コズウェー」を渡り国境を越える。ゲマスまで約3時間、車窓にはパーム椰子の農園が続くが、69年前は天然ゴムの木が多く栽培されていたはずである。年月とともにマレー半島の風景も大きく変化したようだ。ゲマスはヌグリスンビラン州の最南端にあり、マレー鉄道の西海岸線と東海岸線の交差する要衝の駅だが、町自体は小さな田舎町で特にこれといった見所は無く、日本人でこの町で下車することはまずないだろう。しかし、ここから西方約11kmの地点にある「Gemencheh River Bridge」は昭和17年1月14日、小林朝男大隊長率いる41連隊第3大隊がオーストラリア軍の待ち伏せ攻撃を受け、死傷者数百名という甚大な被害を出した場所だ。第3大隊がこの橋を渡った直後に爆破され、切通しとなっていた道路両脇の高台から集中攻撃を受けるとともに、上空からは戦闘機による機銃掃射を受けたという。援軍に来た向田戦車隊も次々擱座されるなど、ゲマスを突破するのに約1週間を要した。そして私がその足跡を追いかける正岡隆大尉(当時は少尉?)は幸運にもこの戦闘を切り抜けることができたのであった。
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 さて、私は駅前のホテル・トロピカーナにチェックインして自転車を組み立て、ゲマスの町を一回りした後、西に向かった。日本軍がマレー半島を縦断した道路は現在国道1号線となり、幹線道路となっている。約40分走ったところにGemencheh River戦跡公園があった。そこにはオーストラリアによる記念碑や説明版が掲げられ、川の中には爆破された橋の橋脚に一部が水面に顔をのぞかせており、説明版には「この記念碑はここで戦った豪・日兵士の名誉のために建てた」と記されていた。豪軍の戦勝記念碑でもなく、日本軍の慰霊碑でもなく、ただ両軍の「名誉」のためにという記念碑に私は癒される思いがした。この地で亡くなった福山41連隊の将兵の冥福を祈り、自転車で来た道を引き返した。道路は大幅に拡張されていたが、両脇に小山が茂り、待ち伏せの拠点になったであろうことは容易に推測できた。まさに自分が銀輪部隊の尖兵となってゲマスを目指しているかのような錯覚さえ覚えた。

「福山聯隊史・片岡修身著」P63にゲマスの戦闘は次のように記されている。
福山歩兵第四十一聯隊の第三大隊は、尖兵として第十一中隊がずっと前に出て後は第九、第十、第十二中隊と続き、第三機関銃中隊が最後であった。全員、自転車かトラックであるのと、連戦連勝であるから、大声で歌いながら自転車を踏んでいた。

♪ガチャグツ、ガチャグツ靴の音 出て見りゃ兵隊さんの演習帰り
 大尉に中尉に少尉どの 特務曹長、曹長、軍曹、伍長、上等兵、新兵さ~ん 
 伍長勤務は生意気で~ 意気な上等兵にゃ金がない かわいい新兵さんにゃヒマがない
 女迷わす、二つ星♪

その時ドカーン。と、いま渡ったばかりの橋を爆破された。最後尾の第三機関銃中隊が渡っていた時、大爆発とともに橋は落下したばかりでなく、橋の両側には日本軍と初めて戦闘する豪州第8師団第27旅団の精鋭であった。すべてイギリス製のステンMK2サブマシンガンで32発が全自動で飛び出す銃で一斉射撃。爆発と同時に福山歩兵第四十一聯隊第三機関銃中隊の九二式重機関銃を積んだトラックは河に落ちた。戦車第一聯隊が先行したことで安心しきって進んでいたので、びっくりすると同時に大混乱であった。まず最先頭の車が手榴弾攻撃でやられ、後部の橋は爆破された。中に挟まれた車両は動きが取れない。そのうえ、全員が三八式歩兵銃は背中に背負ったり、自転車にくくりつけていた。敵は衆をたのんで手榴弾を投擲して次から次と攻撃してくる。
自転車に銃をくくりつけていた兵はゴボー剣を抜いて突撃していった。だが、迫撃砲弾、手榴弾など次々と爆発して砂煙をまき散らし、まともに目も開けられない、修羅地獄とはこのことか。(後略)
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Ambush at the bridge over the Sungei Gemencheh River,beyond Gemas, 14 January 1942. Murray Griffin, 1946[Oil over pencil on hardboard, 123x93cm AWM ART 24500]
 以下「指揮の危機―ベネット少将と1941・42 年マレー作戦における英国軍の有効性―カール・ブリッジ」より引用
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 オーストラリア軍司令官ベネット少将の計画の主要な要素は、大隊規模の大掛かりな待伏せであった。幹線道路が狭くなっているゲマス付近のグメンチェ川に架かる橋が待伏せの場所として設定された。ベネットは強力なカウンターパンチを浴びせる計画を立てていた。彼は日本軍は強力な部隊を海岸線に沿ってムアールまで送り込むようなことはしないと読み、賭けに出たのである。
ゲマスでの待伏せは大成功を収めた。自転車に乗ったおよそ700 人から800 人の日本兵が、殺戮可能な場所で捕捉されたのである。日本兵の半分が戦死し、多くが負傷した。オーストラリアの官選歴史家の言葉を借りれば、それは次のような光景であった。

(橋の下の)爆薬が激しく爆発し、木材、自転車、そして人間の体を空に吹き飛ばした。それとほぼ同時に、ダフィー(大尉)が指揮する3 個小隊が敵に手榴弾を投げ付けるとともに、ブレン銃、トムソン式小型機関銃、そして小銃を敵に向けて掃射した。
その音はあまりに大きく、ダフィーが砲兵隊の発砲を命じたとき、前線にいた観測将校は自分の配下の砲列がすでに発砲していると勘違いしたほどである。
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インターネットで検索したところ、ゲマスにはオーストラリアの関係者は時々訪問しているようであったが、日本人が訪問した形跡はほとんど見つからなかった。その中でマレー半島ピースサイクル(MPPC)という日本人グループが、銀輪部隊が「侵攻」した経路を自転車でたどる旅を実施したそうだ。その趣旨は「MPCCは市井の一人ひとりとして先の侵略戦争を反省し、2度と日本が戦争に加担することのないようにとの願いを込めて、自転車を漕ぎながら銀輪部隊が犯した虐殺などの現場を訪ね、慰霊と平和のための行脚を重ねてきました。」ということである。先に紹介した中島みちの著書によれば、マレー半島における抗日華僑の拠点における掃討作戦に巻き込まれて住民も犠牲になったのは事実であるが、決して虐殺というような内容ではなかったし、戦後多くの日本兵が無実の罪を着せられてB級・C級戦犯として処刑された事実も忘れてはならないと述べている。そもそもマレー抗日華僑掃討作戦はシンガポール陥落後の3月に実施されており、攻撃前進中であった銀輪部隊は「虐殺」とは関係ないはずである。41連隊をはじめとする銀輪部隊の名誉が守らなければならないと感じる。

 平成元年の夏には41連隊第2大隊第7中隊の元兵士・樽田篤磨氏が、マレー作戦で上陸したシンゴラからシンガポールまで孫娘と共に自転車で慰霊旅行をされたそうである。その様子を中国放送がドキュメンタリー番組に仕上げたそうだが、22年前の番組とは言えぜひ観てみたいものだ。ご覧になった方によれば「結婚を間近にひかえた娘さんが祖父と戦争について語り合い、二人で激戦地にて合掌した姿は実に感動的であった」そうだ。激戦地を当時と同様に自転車で旅すれば「当時と同じ空気」に触れることができるはずである。この祖父と孫娘の旅が今回の私の旅のヒントになったと言える。反戦平和を祈る気持ちは私も前記グループと共通しているが、そのスタンスにはかなり差があるように感じる。確かに現地住民や他民族に対しての贖罪も必要だが、戦後ODAや民間企業間での経済交流等を通じて日本はマレーシアの発展に貢献してきた。それよりも何よりもまず犠牲になった同胞の事を忘れてはならないのではないか。
                 <爆破された橋げたがわずかに水面に顔を出す>
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 ゲマスには16時頃帰着し、マレーシア通貨「リンギッド」を入手するべく町内を探したが、この小さな町には両替所が無いことが判明した。途方に暮れているとガソリンスタンドの店員が声を掛けてくれ、インド人が経営するカレー屋を示し、あそこなら両替してくれるだろうと教えてくれたので行ってみると快く両替してくれた。これで晩御飯が食べられるというものだ。
本日はマレーシアの独立記念日であり、TVでは特集番組が組まれていた。マレー語はよくわからないが、番組の中で独立の歴史を振り返る際に必ず最初に1941年の日本軍のマレー作戦の映像が映し出されることから、あの戦争がマレーシア独立の原点・スタートに位置付けられているということは理解できた。
                <オーストラリアの関係者により建立された記念碑>
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by kkochan-com | 2011-09-10 23:29 | Trackback | Comments(0)

シンガポール・マレー半島の福山歩兵第41連隊の足跡を訪ねて②

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9月1日(木)マレーシアからシンガポールへ
 朝起きてゲマスの町を散歩してみたが、20分もあれば一周できるほどの町だった。しかしゲマス駅は新駅を建設中であり、数年後には大きく様変わりしていることだろう。昨日両替してもらったインド人が経営するカレー屋さんに行き、カレーを食べながらインドと日本の関係や、マレーの虎「ハリマオ」について話をした。そのうち昼が近づいたので駅に向かい、12:12ゲマス発シンガポール行きの列車を待つ。列車は20分ほど遅れて発車し、道中もたびたび長時間の停車があった。セガマット、クルアンと通過して、ジョホールバルに到着したのは早や16時過ぎ。ここで車内に乗ったまま出国審査を受け、そしてシンガポールのウッドランズ・トレインチェックポイントで下車して入国審査を受けた。そのままイミグレーションのトイレで自転車に乗る服装に着替え、駅から出るとすぐ自転車を組み立てた。列車が遅れたせいですでに17時が近い。ここからダウンタウンまで30km以上あると思われるが、日が暮れるまでに行けるところまで行くことにする。

 まずは3~4㎞先の英軍戦没者が眠る「クランジ戦没者墓園」を目指すが道に迷い、到着は18時近くになった。広大な墓園には見渡す限り白い墓標が整然と並び、夕暮れが近いにもかかわらずイギリス人旅行者が数組訪れていた。墓守に話しかけてみると彼はインド人であり、先の大戦でインドと日本がともに戦ったと言い握手を求めてきた。マレー作戦当初、インド兵は英軍とともに戦ったが、シンガポール陥落後にインド兵たちは日本軍の諜報機関「F機関」の藤原少佐の呼びかけにより日本軍の傘下に入り、インド独立を目指して日本軍とともに戦うことを約束した。その後のインド国民義勇軍とともにインド進攻を目的とした実施された「インパール作戦」は戦術的には大失敗だったが、日本軍はインド人と交わした約束を守ったとも言えるのではないか。
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 クランジからはブキテマ・ロードを一直線に走るので迷うことは無いが、夕方のラッシュと重なり自転車ではヒヤッとすることが何度かあった。しかし30分も走るとブキバンジャンを通過して前方にブキテマ高地が見えてきた。このブキテマ高地が日英最後の激戦地であり、シンガポール陥落前の死闘が行われた場所である。その最前線であったアダムロードに到達したところで19時近くになり、ここで自転車を折り畳み、タクシーを拾ってホテルに帰った。上陸地点から最前線まで自転車で1時間余りの距離だったが、日本軍はこの距離を進むのに約1週間かかったわけだ。しかも、この1週間でマレー半島縦断における戦死者と同等の戦死者を出すほどの激戦だったという。すっかり近代化したシンガポールの町並みだが、当時とほぼ同じルートをたどることにより何かしらの感触を得たことは確かだった。
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9月2日(金)激戦地アダムパーク訪問
 今日が滞在最終日であると同時に最も大事な日である。昨日訪れたブキテマ高地を走るアダムロード沿いには「アダムパーク」という20軒ほどの高級住宅街があり、なんと戦前から変わらずそのままの姿を保っている。スクラップアンドビルドが繰り返されるシンガポールにおいて奇跡とも言える地域である。今回の訪問の最大の目的は、このアダムパークの戦いをシンガポール攻防戦の縮図と捉え、その歴史的検証「The Adam Park Project」を行っているジョン・クーパー氏と面談することであった。氏はこの局所的な研究がシンガポール戦全体の検証に繋がると考えている。
http://www.gla.ac.uk/departments/battlefieldarchaeology/centreprojects/singaporewwiiproject/ 
 ジョン・クーパー氏はイギリスのグラスゴー大学で軍事考古学(Battlefield Archeology)を専攻されており、実際にアダムパークの住宅街の中で金属探知機等を使用した発掘調査を行っている。そしてその出土品を元に歴史の裏付け作業とも言える検証を行っている。このアダムパークの戦いは昭和17年2月14日、すなわちシンガポール陥落の前日に行われ、イギリス軍は新鋭のケンブリジシャー大隊、対する日本軍は友野幾久治大隊長率いる福山第41連隊第2大隊であった。日英双方の文献や資料、生存者の証言等を集め偏りの無い研究を目指しておられたが、いかんせん研究開始当初は日本側の資料が不足していた。そして約2年前に協力依頼のメールをいただいて以来、私なりに生存者を探して証言を聞いたり、参考文献を知人に託けたりしてきた。特に役立ったと思われるのが、「福山聯隊史 マレー・バターン編 片岡修身著」に登場する岡今朝像中尉率いる第2機関銃中隊の戦闘状況と、「人間の記録・マレー戦 御田重宝著」に登場する宮久保正幸軍曹の陣中日記であった。
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第2機関銃中隊について「福山聯隊史」P92より引用する
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昭和17年2月14日・福山歩兵第四十一聯隊第二大隊(長=友野幾久治中佐)の行動
2月14日の暑熱は、際限なく上昇するようだった。
もう誰の水筒を振っても音を立てない。
おりから夕焼けがはじまろうとして、薄いセピア色の紗を張るように夕暮れがやって来た。弾道のうなる空は、みごとに赤く映えて、鮮冴な夕焼けがクライマックスに達していた。
ぽつんぽつんと星が現れてきた。
福山歩兵第四十一聯隊の第二機関銃中隊長の岡今朝像中尉は、全員集合と声をかけた。
「いまごろ何ごとやろうな!」と兵隊は呑気な顔をして集まってきた。
集まって中隊長の顔を見て、みんな「はっ」とした。
何かあったんやろうな-と兵は小声で言っていた。
岡中隊長はみんなの顔を見まわし、静かな口調で
「ただいま命令がきた。われわれは敵陣ふかく入ることになった。みんな不肖中隊長の下にあって、いままでじつによくやってくれたが、この度こそはみなの生命は中隊長が貰わねばならぬ。覚悟してくれ。親しい人には最後の別れを告げるために手紙を書け、岡部聯隊長からとどけられた酒もある、ゆきわたらんが飲んでくれ。この戦は世界注視の的である。福山四一として、男らしく死んでくれ」
と言う事だった。
さあ、忙しくなったぞ。
決死の出陣とあっては別れの酒も飲まにゃならんし、手紙も書いとかにゃならんし。
まず何と言っても、千人縫を出してみて、恐る恐るなぜさすりながら、千人縫を作ってくれた女性たちに、武運をお願い申し上げねばならん。
死を前にして、静かに死を考えるのは、今が始めてであった。興奮してきた。
マレー作戦に参加以来、戦場を馳駆して幾度か死を考えたことがあったが、それはいわば刹那的に閃く花火のように、決死という立場に立っただけだ。
そして兵隊たちは、きのうとはまったく別人のごとく静かに、何かしいんと澄んだようなものをたたえ、お互いの間にかってなかった程の、しみじみとした触れ合いを感じあっていた。
第二機関銃中隊の精神が一つに統一されたと言うだけでなく、新しい信頼と勇気と、愛国心が炎のごとく生まれてきた。
その時、「おーい、第二機関銃は集合だ」と岡中隊長は大声を出した。
もうだいぶ暗くなっていた。
友軍の砲撃もものすごい。ピュンピュン飛び交う銃弾、時には美しい色をした曳光弾が飛んで来る。前進したらブキテマ高地の端に、白人住宅が群立していた。ここが戦場になっていた。(※アダムパーク)
内海勇少尉と大内武生少尉とは、それぞれ小隊長として最先頭を進んでいた。
ベビー・ゴルフコースのある広々とした芝生のある豪華な2階建ての住宅群だ。
しかし、ジットラ・ライン以来大小数十回の戦闘に敗れたイギリス軍が地引網に追い込まれた魚のように、シンガポールに流れ込んでいたことを示すように、その付近には200台以上のトラック乗用車が、一台残らずフロントガラスを射抜かれて放置してあった。
少し下の家には、まだ敵がいて自動小銃を猛射してくる。これに対して一軒一軒攻撃して取らねばならない。
ダアーンと発射音につづく砲弾がそこら中に破裂して、そのたびにザアーッと頭から土砂をかぶる。頭をもたげることも、手を動かすこともできない。眼口もあけていられない激しい砲火の連続だ。キナ臭い硝煙がもうもうと立ちこめて何も見えない。「ああここで自分も死ぬのか」という一念以外は、不思議となんの想念もわいてこなかった。
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 岡今朝像氏は滋賀県大津市に存命であり、平成22年11月に面会を申し込んだが、当初は「もう戦争の話はしたくない」「歴史を知りたかったら本を読みなさい」と拒否された。しかし、そこをなんとかと押しかけて貴重な証言を得ることができ、それをジョン・クーパー氏に情報提供することができた。様々なエピソードを伺ったが、中でも部下の皿海久三兵長の死については心残りであった様子で、詳しくお話ししていただいた。

「皿海は機関銃の名手で、シンガポールに白旗が揚がるほんの1~2分くらい前に砲弾の破片を膝に受け、腰に貫通して戦死したんだ。戦後、福山の実家を訪ねて行ったら、母一人子一人の家で、お母さんがこう言った。『あの子が帰ってきた夢を見ました。でも絣の着物の膝がネズミに食いちぎられていました』それを聞いて何とも言えない親子の情を感じたよ。だから俺なんかも本当人殺しをやって、部下をたくさん殺して本当罪なことした。だけどこれしょうがなかった。本当罪なことしたよ。」
 その後、岡氏らはニューギニアに転戦し、地獄の戦場を経験しさらに多くの部下を失うが、マレー作戦で死んだ部下が一番幸せだったと言う。なぜなら「マレー作戦で勝ったから・・・ニューギニアは本当にもう捨てられた戦だったと思う。いつかは死なにゃいかんが、あぁ言う死に方はしたくないものだ。」と話された。
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続いて宮久保正幸軍曹の陣中日記については「人間の記録・マレー戦 後編」P234より引用する。
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 払暁攻撃で約千メートル前進して、住宅のある高地を激戦の末に占領した。ここは白人住宅が丘の上から道に沿って十軒ばかりあった。もうここはシンガポールの一部だ。われわれは家の床下や家の陰に壕を掘って戦った。高地の家は占領したが、少し下の家はまだ敵がいて、チェコ機銃や自動小銃を猛射してくる。われわれはそれに対して1軒1軒を攻撃して取らねばならない。(※アダムパーク)
 ここらの白人住宅は、ほとんどコンクリートで出来ているため、敵はその窓から前進肉薄してくる。十二時ころ捕虜二十人を得て、この高地を完全に占領することができた。このころ、第一線では弾薬が欠乏してきたので、私はその捕虜を連れて後方まで弾薬を取りに行った。一人一箱ずつ弾薬をかつがせるとフーフー言っていたが、ともかく第一線まで補給することができた。
 敵砲弾はだんだんと近くなり、ついにこの高地を目標に盛んに撃って来始めた。
小さな谷を越えた千メートルぐらい向こうに敵兵舎があり、その前の線に塹壕があって、チョロチョロする敵兵の姿が見える。われわれは、あまりにも砲火が激しいので、白人の住宅に入った。この家は二階建てでコンクリート造りだから、少々の砲弾は階下までは届かない。だが、敵はこの建物をめがけて集中砲火を浴びせて来たから屋根は吹っ飛び、家全体を破壊しかねない勢いだ。私たちは地下室や階段の下に入っていた。私は大丈夫と言いながら、門田軍曹と飯を食った。

 その時、一弾が正面のコンクリートの壁に当たり、大音響とともに壁は破れ、私の体は二メートルばかり吹き飛ばされて、後ろの壁にたたきつけられた。部屋の中は砲煙で何も見えず、私はてっきり「やられた」と思った。頭をひどく打たれた感じで、ちょっと立ち上がれなかった。砲煙が少し薄れると門田軍曹が飛んで来て「やられたか」と言った。その声で私はようやく立ち上がることができた。頭からコンクリートのかけらを振るい落として頭をなでてみたが、コブが三つばかり出来ているだけだった。腰につけていた短銃の皮サックが破れて、砲弾の破片が銃身に食い込んで止まっていた。不思議にも命拾いをしたわけだ。短銃がなかったら腹を破られて死んでいただろう。
 砲弾はますます激しくなる。弾を受けない家は一軒もなくなった。戦車隊が到着したが、この高地を出ていくと戦車の周りにすぐ二、三十発の砲弾が落ちて来て姿が見えなくなる。戦車もこれにはかなわず、引き返さざるを得なかった。そこここで「やられた」「衛生兵」という声がする。衛生兵も何人かが負傷したり戦死したりした。
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 そして翌日の2月15日、白旗とユニオンジャックを掲げた英軍軍使がブキテマ・ロードに現れ、フォード自動車の工場にて山下奉文軍司令官とパーシバル英軍司令官が会見し、無条件降伏について「YesかNoか」という有名なシーンが撮影された。私はアダムパークの研究調査がほぼ大詰めに迫ったことを知り、ついに現地を訪問するに至ったのである。
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 朝10時にジョン・クーパー氏と落ち合い、彼の住むコンドミニアムに向かった。なんと彼の住居はアダムパークの隣の戦時中に給水塔があった通称「ウォータータワーヒル」にあり、9階の彼の部屋のベランダからはアダムパークが眼下に広がり、手が届く距離に高層ビルの連なる市街も見える。
まず、これまでの研究成果の説明を受けた。アダムパークには水源地(トンプソン)方面から7~800名の若い志願兵を中心とするケンブリッジシャー大隊が配置されたが、彼らは実戦は初めてであったという。対する41連隊は中国戦線を転戦し、マレー戦では数々の激戦をくぐり抜けてきた精強であり、その力と経験の差は大きかった。しかし、アダムパークは後背地から市街地への境界にあたり、地の利を活かし住宅を盾にした典型的な市街戦の様相を呈し、ケンブリジシャー大隊は健闘した。この先、このような市街戦が連続したとすれば、パーシバルが降伏しなければシンガポール陥落はまだ1週間から場合によっては1ヶ月かかった可能性があるという。
 2月15日、ケンブリジシャー大隊はアダムロードからブキテマ・ロードに向けて後退したかったが許されなかった。つまり降伏するまで守備位置を離れなかったことから、局所的に見れば「勝った」と言えるかもしれないし、日本軍得意の迂回作戦により飛び越されたかもしれないそうだ。
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 発掘調査における成果も見せていただいたが、日英の薬莢や弾丸、部隊識別バッジ、ベルトのバックル等、装備品の数々の出土品があり、それぞれがどの場所から出たかにより、戦闘行動の裏付けが行われていた。たとえば機関銃の薬莢が一直線上に出土したことにより、このラインに沿って突撃(または後退)したことがわかるという。珍しい物では英軍の薬莢には中には火薬が残っており、それは湿気に強い糸状火薬であった。また、ビー玉があったので、これはおそらく日本軍のサイダーの栓ではないかと伝えておいた。
 そしてジョン・クーパー氏の案内のもとに実際にアダムパークを歩いた。道路や側溝はもちろん、No.16住宅の庭にあるベビー・ゴルフコースまで当時のままであり、おそらくこの側溝を塹壕代わりにして戦ったであろうことは容易に想像できた。次にそれぞれの住宅がどのような役割を果たしたかの説明を受けた。戦闘時にコンクリート製の強固な住宅はトーチカの役割を果たし、直後は野戦病院、陥落後は捕虜収容所や教会として使用されたという。アダムパーク隣りの95高地には日本軍戦車隊が進出したが、その戦車が砲列を敷いた位置まで特定されていた。「ここに戦車が並びアダムパークを砲撃した」と説明を受けると、69年の時空をタイムスリップしたような感覚を覚えた。
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 アダムパークの現地視察を終えた後、アダムロードに面した「シンガポール日本人会」の事務所を訪問した。ジョン・クーパー氏の研究調査「TAPP」は来年2月を目途に終了して帰国予定であり、この研究成果を私と杉野一夫事務局長に活用していただきたいということであった。3人で様々な意見交換を行ったが、戦争責任や虐殺の問題、戦後補償の問題等にかかわらず、死んだ兵士の名誉のためにもシンガポールの戦史を歴史に埋めてはならないという点で一致した。例として会津若松の白虎隊の悲話は様々な形で後世に引き継がれているし、原子爆弾による被害や後遺症についても語り部による体験の継承が積極的に行われている。しかし、南方で戦死した将兵の哀話はジャングルの落ち葉の下に埋もれてしまっている。また、その奮戦を語ることに躊躇し、批判する風潮も依然としてある。しかし、杉野氏曰く、確かにシンガポール陥落50周年の際は様々な反日キャンペーンが行われ居心地が悪かったが、それ以来20年間において面と向かって日本人批判を受けたことは無いし、シンガポール政府も日本と対立しようとは考えていないという。杉野氏は、日本人は感情に左右されやすい民族であるとし、私は終戦という大事件を境にそれまでの日本人社会が180°方向転換したが、戦史についてもそろそろ歴史の一部としてとらえ、来年のシンガポール陥落70周年には何か歴史認識の融和を図るようなイベントが行われれば幸いだと感じていると述べた。記念日に限らず、日本人観光客や在住日本人たちがこの日本人会館に隣接するアダムパークの古戦場に足を運び、父や祖父たちの世代の戦争を振り返る機会を作ることが必要ではないだろうか。ジョン・クーパー氏曰く、41連隊は中国戦線~マレー作戦~東部ニューギニア戦~レイテ戦という激戦地を転戦し全滅したし、留守部隊は原爆投下の際は広島市に救援に行き被爆し、その2日後には福山空襲に遭うなど、先の大戦の縮図とも言える部隊である。この悲劇の部隊の歴史の継承は大切な問題だと述べた。とりわけすべての戦地に従軍した正岡大尉の存在は興味深く、この地で戦ったケンブリッジ市と福山市の交流も今後の課題としたいそうだ。3者ほぼ意見が一致し、非常に有意義な意見交換ができたのではないかと感じた。戦地において自転車で同じルートを辿るという「等身大」の旅はこれで完結したが、現地で感じた感覚をいつまでも大切にしたいと考えている。
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by kkochan-com | 2011-09-09 23:30 | Trackback | Comments(0)