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福山歩兵第41連隊のレイテ島における戦跡調査報告書①

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1、はじめに
備後の郷土部隊「福山歩兵第41連隊」は東部ニューギニア戦で全滅寸前まで戦った後、平壌で30師団に再編成されレイテ戦の援軍として急遽派遣された。しかしレイテ戦における記録はマレー作戦やニューギニア戦と比較して極端に少なく、その足跡は不明な点が多い。筆者はその行動記録を整理して後世に伝えるべきと考えるが、レイテ戦における41連隊の生存者はわずか十数名と言われており、すでにその全員が鬼籍に入っている。昭和52年に御田重宝氏が41連隊の足跡を辿った連載を中国新聞紙上で行ったが、御田氏の取材には批判も多く、中国新聞社内に記事の「検証委員会」が設けられる事態となった。そして御田氏以降、41連隊の足跡の調査が行われた形跡はない。また、再編成された際は備後地方以外の兵士も多数招集され、「郷土部隊」という色合いが薄れたことが関心の高まらない一因かもしれない。さらには市議会議長を歴任した元41連隊の門田武雄氏が開設した赤坂遊園の「41連隊記念館」も平成3年に閉館し、同時に連隊の門柱等の歴史的な資料は散逸した。連隊跡地は周囲を囲む石垣が一部残る他にその痕跡をほとんど残していないため、筆者個人の負担で火薬庫跡に「福山兵営跡地」の説明看板を設置した。
41連隊の慰霊碑は「全滅の地」とされるカンギポット山の麓のビリヤバにあるが、損傷が激しくすでに表題の文字は読めない状態となっている。ここカンギポット山周辺では戦闘らしい戦闘もなく、様々な部隊の敗残兵の寄せ集まりが米軍の包囲網の中、岩陰に身を寄せ合って砲爆撃を避けていたにすぎない。米軍は日本兵が餓死するのを待っていたのではないだろうか。41連隊の慰霊団は緒戦の遭遇戦であったトンガと全滅の地ビリヤバを度々訪れている。昭和55年には福山市とレイテ州の州都タクロバン市は姉妹都市提携を行ったが、平成14年にタクロバン市の名誉市民であった土肥政男氏が亡くなられたことにより、慰霊ツアーは10年近く催行されていない。現在は私が顧問を務める「タクロバン福山交流支援センター」による交流の旅が年1回程度行われている。
さて、筆者は縁あってタクロバン市を毎年訪問しているが、8万人が戦死したレイテ島にはまだ多くのご遺骨が眠っていることを知った。41連隊の将兵の多くも未だレイテのジャングルの中で眠っているはずだが、緒戦のトンガと全滅したビリヤバにおいてしか遺骨収容は行われていない。その間にも多くの戦闘があったはずであり、特にレイテ島を南北に貫く脊梁山脈における行動は謎に包まれている。筆者は様々な文献を調査し、戦後日本人としては初めてこの山域に足を踏み入れて現地調査を実施したので、その成果をここに報告する。

2、日本側の資料による調査
昭和19年10月25日、炭谷連隊長率いる第1大隊(長・西田少佐)と第2大隊(長・正岡大尉)約2,100名は軽巡「鬼怒」駆逐艦「浦波」他の輸送船に分乗し、ミンダナオ島カガヤンよりレイテ島オルモックに急行した。(この日レイテ沖海戦では栗田艦隊が謎の反転)10月26日、無事にオルモックに上陸、ただちにタクロバン方面で戦う牧野中将率いる16師団の援軍としてリモン峠に向けて前進した。この時、弾薬は1会戦分しかなく、以後の補給の有無は不明である。(第1師団の輜重第1連隊より若干の補給?)
10月30日、カンナガ、リモン峠、カリガラを経由してハロ近辺にまで進出、米軍(第24師団)と遭遇戦となり、圧倒的な砲撃の後に戦車に蹂躙される。それでも米軍戦車の砲身に速射砲を打ち込む等善戦し、指揮官ニューマン大佐も負傷後送されたが、41連隊の戦力は約半数となり31日夜の大雨にまぎれてカリガラ方面に後退した。この模様は唯一人の生存者である砲兵隊中隊長の佐々木寛平大尉の証言がすべてである。また、10月31日にカリガラに到着した102師団の金子参謀は「歩兵41連隊は30日ハロ西北方地区で敵と遭遇戦を演じ、敵の砲撃および戦車のため圧倒されて、一たまりもなく敗退し、11月1日、カリガラ南西方山地に拠りつつある。炭谷連隊長は1個大隊を掌握しあるに過ぎず、他の1個大隊の状況は不明」と11月3日に三十五軍司令部に打電した。ただし、この戦闘により米軍のカリガラ進出が遅れ、11月1日にオルモックに上陸した第1師団がリモン峠に展開する時間的猶予を作ったことは評価されている。
その後、517高地(カリガラ南西山地)に後退した41連隊は天兵大隊や独立歩兵第169・171・364大隊らと共にピナ山に拠点を置く102師団(福栄師団長)の指揮下に入るも、12月23日にカナンガに下山するまでの50日間にわたるレイテ脊梁山脈における戦闘詳報はもちろん生存者の証言もほとんど無い。脊梁山脈における戦闘は後の福栄師団長の独断脱出と相まって「さえない戦闘」として、激戦の連続であったレイテ戦における評価は低い。しかし、41連隊は現役中心の精強部隊であり、ニューギニア戦を生きぬいた歴戦の指揮官が指揮していたことから、筆者としては簡単に敗走したとは考えにくい。ちなみにミンダナオ島に残留した第3大隊(長・高木少佐)はジャングル地帯を転戦し、飢えと病とゲリラに悩まされながらも終戦まで組織的行動を崩さず、数度にわたり米軍陣地に切り込みを行い、終戦間際の8月12日には虎の子の大隊砲で米軍陣地を砲撃して米軍を驚愕させた。

数少ない記録を紐解くと、102師団参謀長・和田大佐の日記によれば、11月20日の時点で「41連隊は600人に減じ、西田大隊(第1大隊)はピナ山にあり、正岡大隊(第2大隊)は716高地(米軍のいう2348高地)、連隊本部はその中間、田辺大隊(102師団の独立171大隊)は517高地」という配置が記されている。また、昭和31年に記された金子参謀の手記「第百二師団作戦経過の概要」によれば、11月下旬の戦況として「41連隊は、いぜん716高地北方高地を占領し、敵と数十メートルを距てて戦闘中にして、わが損害は兵力の半数なり。716高地は配備なく、一部の敵逐次侵入し41連隊側面は危殆に瀕しつつあり」と記されている。
昭和42年に発行された大岡昇平の「レイテ戦記」によれば、脊梁山脈に関する記載の多くは第1師団の戦闘経過であり、102師団に関する記載は少ない。大岡は、102師団は元来セブ、ネグロス、パナイ島の警備旅団で、装備訓練未熟な補充兵により成り、有効な反撃ができなかったとし、「レイテ戦全体を通じて遊兵的存在に終わった」と評価は非常に低い。前記の金子参謀の手記を引用して、716高地自身には陣地はなかったから、容易に敵の進出を許したとも記している。
昭和52年に発行された中国新聞の御田重宝の著書「レイテ・ミンダナオ戦」によれば、これらの記述から716高地は大岡同様に「ここには日本軍の陣地は無かった。」とし、米軍はこの716高地から517高地の41連隊を側面攻撃したのではないかと推測している。 続いて御田は、41連隊が517高地で激闘したという証言はないが、かなり激闘したはずと推定しており、その詳細は「永久に不明のまま終わるのであろうか。いかにも心残りである。」と、戦史が歴史の闇に葬られることを嘆いている。御田はマレー作戦・ニューギニア戦における41連隊の足跡も追いかけており、あの精強部隊が簡単に「終わった」とは考えにくかったのではないか。

昭和19年10月作成「レイテ島兵要地誌図」
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この地図によれば、脊梁山脈の大部分が空白であるにもかかわらず、517高地~716高地~ピナ山周辺については等高線も詳しく入り、炭谷連隊長はこの地図をもとに517高地に向かったのかもしれない。

昭和55年に発行された田中賢一の著書「レイテ作戦の記録」によれば、著者は「ピナ山に登ったわけではない」と断りを入れ「ピナ山麓に入った部隊がここでどのような戦闘をしたか、資料は極めて乏しい」として、戦闘経過を想像して記している。すなわち、脊梁山脈に入った部隊はカリガラ平野の戦闘ですでに消耗しており、武器弾薬も乏しく(41連隊は連隊砲も速射砲も平地の戦闘で損失)、517高地はカリガラ平野を一望にする要衝ではあったが「山の上で敵の車両部隊を眺めていたに過ぎない」としている。41連隊は現役部隊であるが他の部隊は軽装備の警備師団であり召集兵が多かったとし、「その実力は疲れた歩兵が5個大隊あるに過ぎず、米軍がまともにかかってくれば一たまりもないが、米軍にとっても地形上好ましい戦場ではなかったので、11月中は持ちこたえた」と記している。つまり要点は占領しているものの、火力が乏しいので間隙に敵が入ってきて到るところ孤立し、102師団が脊梁山脈に存在しても何の価値もないような状態になり、12月23日に戦場を離脱しカナンガを経由してマタコブに向かって転進したと結論づけている。

<考察>
昭和31年に記された金子参謀の手記がその後に発行された戦記のベースになっており、特に著名な大岡昇平の「レイテ戦記」により、脊梁山脈における102師団の「弱い」イメージが固まったと言えるのではないか。大岡のレイテ戦記は発行後に明らかになった「新事実」を反映することなく版を重ねているという批判もある。筆者は御田と同様に、現役兵中心の歴戦の41連隊の戦闘の詳細に興味を持ち、正当に評価する方法を考えた結果、国内に証言者も記録も無い以上、残る手段は海外に資料を求めるか、現地の実地調査により新たな事実を探すことが有効と考えた。

<41連隊の行動概要>
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by kkochan-com | 2012-07-31 14:00 | Trackback | Comments(2)

福山歩兵第41連隊のレイテ島における戦跡調査報告書②

3、米軍・第1騎兵師団の戦史
 前項では、日本側の証言や資料が極めて少ないため、推測による戦史が一人歩きしている状態を示した。しかし、本当に脊梁山脈の日本軍は「遊兵的存在」で「一たまりもなかった」のか、米軍の戦史を元に検証を進めたい。筆者は第1騎兵師団の戦史「THE 1st CAVALRY DIVISION in WORLD WAR Ⅱ」を取り寄せ、「THE LEYTE-SAMAR CAMPAIGN」P80~89に脊梁山脈の戦闘に関する記載を発見した。以下、戦史研究家の丸谷元人氏が翻訳した、ミノロ山(517高地)・バディアン山(692高地)・2348高地(716高地)に関する戦闘記録を紹介する。
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<11月7日>
日本軍は引き続きオルモック渓谷を通って北方に増援部隊(第1師団か)を派遣したため、レイテ渓谷とオルモック渓谷を分断する脊梁山脈周辺に浸透する敵の脅威が改めて浮き彫りとなった。この日本軍の作戦計画は、捕獲した文書によっても明確に裏付けられていた。
 この敵の行動を阻止するため、第12騎兵連隊に対してただちにレイテ渓谷西方の高地に進撃し、そこに展開していた日本軍守備隊を攻撃せよとの命令が下された。この攻撃準備の最中、E中隊はバディアン山(692高地)とミノロ山(517高地)の間の鞍部に進出し、F中隊はピナ山とバディアン山の間の高地に移動した。その間、第1大隊は第2大隊に合流するため、激しい台風の中を夜通し行軍した。ジャップが周囲に出没する地域で晴天の昼間に行軍を行う事は極めて危険な事であるが、一方で、時速40マイルから70マイルもの強風が吹き付ける強風の中、泥と雨にまみれつつ行ったこの厳しい進軍は、将兵らの記憶に長く残り続けるであろう。結局、第1大隊は11月9日0715時にこの行軍を完了した。そして0800時、第271野戦砲兵大隊による支援射撃の下、第12騎兵連隊は攻撃を開始した。当初、日本側からの反撃は極めて微弱であったが、F中隊は散発的な抵抗を受け、5名の敵兵を殺害した。その直後、F中隊の右翼を防衛していた一分隊が敵の反撃を受け、これにより分隊機関銃手1名が戦死、第二機関銃手が重傷を負った。その時、ニューメキシコ州コチタ・プエブロ出身の弾薬手、ベン・キンタナ上等兵が、沈黙させられた機関銃に駆け寄り、凄まじい射撃を敵に浴びせたため、日本軍には死傷者が続出した。この戦闘の最中、キンタナ上等兵自身も敵の射撃を浴びて致命的な重傷を負ってしまったが、彼の勇猛な戦いぶりによって敵の反撃は一気に挫かれ、部隊の安全が確保される事となった。その結果、部隊は攻撃を再開し、敵の拠点を制圧する事が出来た。
 昼前までに敵は一層強力な抵抗を示すようになったが、第12騎兵連隊第2大隊は、砲兵による制圧射撃を要請した上で敵に対する攻撃を実施、ついにジャップを駆逐させることに成功した。この戦いは、その後に行われたオルモック−レイテ渓谷間の脊梁山脈における激しい争奪戦の序章となるものであった。陰鬱で過酷な環境の中、この争奪戦は以後二ヶ月間継続される事となる。その間、我が軍が保有していた8万分の1の地図が、実に不正確であるという事も判明し、作戦に著しい悪影響を与える事となった。例えばこの地図では、 ピナモポアンから南に続く道路の場合、実際の位置から2,000乃至3,000ヤードも西にずれた位置に描かれていた。そのため、バディアン山からピナ山にかけて作戦行動をしていた部隊は、自分たちの現在位置を確認することに大変な苦労をさせられる事となった。ただ一つ救いであったのは、この地域で活動していた日本軍もまた、不明な現地の地理に悩まされていたことである。一方、さらに深刻な問題は、前線部隊への補給であった。ここでは、すべて兵士たちが装備や食糧を手で運ばねばならなかったのである。そのため、山岳地域に深く入り込むほど、弾薬や食糧の補給が一層困難になるという状況が生じたのであった。結果として、時に将兵たちは一日一食のみの給養で何日間も戦い続けねばならない事態が度々発生したのである。

<11月9日>
第1騎兵師団長のマッジ少将は最前線の戦闘地域を数回視察した。マッジ少将はまず、ピナ山とバディアン山の間の山道奥で孤立していた第5騎兵連隊のB中隊に足を運んだ。この師団長視察は、前日から同地域を襲っていた台風による強風の中で行われたが、その途中で多くの氾濫した河川や水路を渡らねばならなかった。敵の攻撃が差し迫る中、断崖絶壁の狭くて険しい山道を通って行われたこの視察は、大変な困難を伴うものとなったのである。
 二日後、マッジ少将は同じように困難な道のりを通って、今度は自ら第12騎兵連隊本部を訪問した。この前線視察によって、師団長のマッジ少将は、麾下の部隊が自分たちの現在位置を正確に把握しておらず、このままの状態で補給を行う事が極めて困難である事を理解した。一方、師団長がわざわざ最前線に進出した事で、前線将兵と補給部隊の将兵らの士気は一気に向上した。視察する先々で、将兵らと気軽に会話し、勇気づけ、彼らの作戦内容や健康状態にまで深く気を使うマッジ師団長の人柄は、兵たちの絶大な支持を得るに至り、そうして一気に燃え上がった部隊の士気が、結果的に第1騎兵師団をして大勝利に導く事になった。

<11月10日>
第5騎兵連隊第1大隊は、敵の抵抗を受ける事なくピナ山系の2926高地を占領した。そこから北西にあるピナ山とバディアン山の間では、第12騎兵連隊が日本軍の強力な抵抗に遭遇していた。ナイフの切っ先のように鋭く聳えた稜線に布陣していた約50名のジャップが、前進して来た第12騎兵連隊に対して機関銃などで激しい攻撃を加えて来たのである。ここが敵の防衛線における重要拠点の一つである事は明らかであった。そのため、この稜線に対する野戦砲兵の制圧射撃が夜通し行われ、その結果、ついに敵をこの線から駆逐する事が出来た。

<11月11日>
比較的静かな日であった。第12騎兵連隊第1大隊が散発的な小銃射撃による敵の抵抗を受けたものの、それらは行く手を阻むような険しい地形によって大した効果を挙げる事はなかった。一方、ミノロ山付近において激しい敵の包囲攻撃を受けていた小銃兵らの部隊を援護するため、第7騎兵連隊D中隊所属の1個小隊が現場に急行した際、イリノイ州マウント・スターリング出身のディックD. カーペンター軍曹は敵に対する偵察任務を志願した。カーペンター軍曹は早速偵察を開始したが、しばらくして前方わずか25ヤードの距離にあった、よく偽装された日本軍の塹壕にから突然銃撃を受けた。カーペンター軍曹はとっさに地面に伏せ、敵の塹壕まで10メートルのところまで匍匐前進で静かに近づくと、そこで手榴弾2発を投擲して直後に突撃、手にしていた短機関銃で塹壕内の敵兵3名を射殺した。この迅速で攻撃精神に溢れ、かつ勇猛な攻撃により、彼の小隊は一人の死傷者を出す事もなく、進撃路の安全を確保する事が出来た。

<11月12日>
第12騎兵連隊の作戦地域では、アラバマ州カラマン出身で、連隊本部管理隊のフィニス・モーガン曹長が、バディアン山にあった敵陣に対する攻撃を指揮したその功績を評価されていた。モーガン曹長は恐れを知らぬ攻撃を敢行し、自身も敵の迫撃砲陣地から数ヤードのところに突撃、日本軍の迫撃砲手3名を殺害し、砲までも効果的に破壊した。

<11月15日>
2348高地の斜面では、第12騎兵連隊第2大隊が日本軍の激しい抵抗を受けていた。敵は引き続き後退を続けていたが、それでも大隊の前進速度は遅々としたものであった。常に巧みな偽装を施す日本軍は、塹壕群を周辺に配置し、アメリカ兵が接近すると、いきなり擲弾筒、機関銃および小銃などで攻撃を仕掛けてくるのであった。そのため、前哨の偵察隊は極めて慎重に前進し、敵の発砲を認めるや、直ちに砲兵に対して制圧射撃の支援要請を行い、敵陣地を破壊する必要があった。しかし、敵の方形堡が極めて巧みに遮蔽されている場合などは、砲兵でさえまったく効果を与える事が出来ないため、その場合は、マヌス島での戦闘のように、歩兵が直接敵の方形堡を攻撃し、小銃射撃と手榴弾の投擲で一つ一つの壕を制圧しなければならなかった。
数度の小規模な銃撃戦が午前中に発生し、正午には第12騎兵連隊第2大隊が、少なくとも40以上の塹壕からの重機関銃と小銃による射撃を浴びた。砲兵による短い弾幕射撃の後、敵の塹壕の数は減少し、新たに迂回攻撃を行った部隊が7名の日本兵を射殺した。その結果、ジャップは陣地を捨てて退却して行ったが、それらの陣地は実に60名から100名ほどを収容出来る規模のものであった。ジャップたちが使っていた機関銃のうちの2丁は、アメリカ製30口径水冷式機関銃であり、それらは日本製の銃器類と併用されていた。
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by kkochan-com | 2012-07-30 13:59 | Trackback | Comments(0)

福山歩兵第41連隊のレイテ島における戦跡調査報告書③

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<11月16日>
2348高地の戦いでは、第12騎兵連隊G中隊が先鋒となって攻撃を仕掛けた。制圧したある陣地を調べたところ、そこがいくつもの塹壕とタコツボを相互につないで構築した蜂の巣状の陣地であり。200名ものジャップを収容出来る規模のものであることが判った。敵は1100時まで前進する部隊に対して散発的な反撃を行ったが、その後一時的に抵抗を中止した。その数分後、砲撃を受けた30名乃至40名の敵兵が 、G中隊に向かって攻撃を仕掛けて来た。このうち、13名が殺害され、残余の敵兵は、擲弾筒や機関銃、小銃などを装備した偽装陣地まで後退した。この新たな陣地を無力化する事は困難を極めた。我が師団の部隊は2度の攻撃を行ったが、その都度失敗して引き下がらざるを得なかった。敵はしばらくの間、我が騎兵部隊の将兵を地面に釘付けにし、戦線はこう着状態に陥りかけたが、個々の将兵らの努力によって、戦況は次第にアメリカ軍にとって有利なものとなっていった。

<11月21日>
引き続きの悪天候のせいで、アメリカ軍砲兵隊による効果的な集中射撃の機会はなく、この日は敵を温存させることになった。105ミリ榴弾砲によって300発を発射したものの、日本軍の陣地は刃先のように鋭い稜線の上にあり、命中させる事は極めて困難であった。激しい雨がやはり視界を塞ぎ、切り立った地形は、弾着修正を一層困難にさせ、弾着修正を行うために前方に進出していた観測隊員らを悩ませる事しきりであった。この山岳戦闘のほとんどは、このような状況下で行われたのである。砲弾のほとんどは、地図上に指示された升目の中の標的周辺には着弾する事なく、手前の濃い密林地帯に落下して爆発効果を著しく減退させるか、または稜線の標的の上を飛び越えて、その後方に落下するかのいずれかであった。こちらの砲兵が射撃を始めると、敵はすぐに稜線の反対側の斜面に隠れてその攻撃をやり過ごし、一旦砲兵が射撃を中止すると、彼らはまた元の陣地に素早く戻り、こちらの歩兵が全力で険しい崖を駆け上ってそこを占領しようとする動きを確実に封じるのであった。

<11月24日>
第112連隊戦闘団(RCT)は、ミノロ山からシナヤワン地域において抵抗する敵に対して攻撃を実施した。最初の戦闘で、A中隊は3名のジャップを殺害し、他の9名の敵兵は南西方面に向かって逃走した。その後、第112騎兵連隊B中隊と第34歩兵連隊E中隊は、協同で師団の担当区域の境界線付近に進出し、付近のカマボコ兵舎周辺に掘られた塹壕で、軽機関銃や擲弾筒の他、鹵獲した米国製ブローニング自動小銃(BAR)や短機関銃、小銃などで武装した勢力不明の敵部隊と交戦した。サウスダコタ州ストラギス出身で、B中隊を率いていたレオナルドL.ジョンソン大尉は、この戦いにおいて凄まじい猛攻撃を敵に加えたとして表彰された。ジョンソン大尉自身、敵の手榴弾の破片によって負傷していたものの、大尉は攻撃の手を一切緩めず、常に声を振り絞って部下を鼓舞し続けたのであった。

<11月25日>
朝に行われた事前偵察と、砲兵隊による準備射撃の後、第112騎兵連隊はふたたび正面の敵に対する攻撃を開始した。戦闘は終日、かなりの接近戦の形で続いたが、我が軍の強力な攻撃にも関わらず、日本軍は陣地を放棄せず、頑強に抵抗した。日本軍の陣地は、我が軍の最前線から見て滑りやすい急斜面の上方100ヤード以内の地点にあったが、手榴弾を下に向かって文字通り転がしてくるには最適の地形であった。ジャップたちは、稜線上に沿って塹壕を掘り、我が軍の砲兵による制圧射撃が始まるや否や、彼らはそのすぐ後ろに掘った深い穴に飛び込んで、砲弾をうまくかわすのであった。騎兵第112連隊の攻撃の中でも、B中隊の2名の兵士の活躍は特に優れたものであった。テキサス州ダラス出身のハロルドB.ロフマン伍長と、オクラホマ州ヘンリエッタ出身のハービーB.バンガード軍曹は、機関銃と小銃による敵の激しい射撃をかい潜り、補給されたばかりの手榴弾の箱を持ってジャップの機関銃座の近くにある木の根元にまで到達すると、そこから敵の塹壕に向かって一気に手榴弾を投擲したのであった。この攻撃により、彼らの位置は敵に特定され、機関銃弾が彼らの隠れていた木を切り裂いた。持っていた手榴弾すべてを投げ尽くした二人は、後方の友軍に向かってもっと手榴弾を持ってくるように叫んだ。この手榴弾攻撃によって、二人は少なくとも6つの日本軍の塹壕を沈黙させる事が出来た。さらに他の日本軍のタコツボを攻撃するため、ロフマン伍長は匍匐で前進を続け、その間、すでに負傷していたバンガード軍曹は、カービン銃を使って援護射撃を行った。こうして 前進していたロフマン伍長は、あと少しで任務達成という矢先に、すぐそばで敵の手榴弾が爆発し、伍長は即死した。一方、すでにかなりの出血をしていたバンガード軍曹は、引き続き最前線に一人残り、指揮官からの後退命令が出るまでの間、敵と交戦し続けたのであった。この2人の大胆不敵な戦いぶりにより、部隊の攻撃は大きな成功を収めたのであった。

<11月26日>
第12および第112騎兵連隊は、目の前に引き続き展開していた敵を攻撃した。過去二日間にわたって、第112騎兵連隊を苦しめていた敵部隊は、午後になって行われ第82および第99野戦砲兵大隊の集中射撃によってようやく制圧された。

<11月27日>
この日、第12騎兵連隊第2大隊は終日、2348高地における日本軍に対する攻撃準備に専念していた。連隊は11月28日早朝から、敵に対する包囲攻撃を開始した。攻撃は成功し、敵は多くの兵器を遺棄して後退した。しかし、濃い霧と険しい地形のせいで追撃は断念せざるを得なかった。

<11月29日>
さらなる困難が第12騎兵連隊第1大隊を襲った。約2個中隊相当と見られる敵の部隊が、後方の補給路を遮断したのである。この大隊では、以前から細くなっていた補給のせいですでに食糧不足に悩まされていた。この補給路遮断によって、最悪の事態の発生が予想された。そのため、第5騎兵連隊D中隊とA中隊からそれぞれ1個小隊ずつの提供を受けて増強された第12騎兵連隊のC中隊が、この日本軍部隊を同時に攻撃したが、逆に猛烈な射撃を受け、中隊はその場に釘付けとなってしまった。夜になっても、ジャップの部隊は引き続き後方の補給路を占領したままであった。
他方2348高地にあった第12騎兵連隊第2大隊は、日本軍による小規模な反撃を撃退した後、周辺に散った将兵らを集結させ、部隊を再び掌握した。日本軍は、6度の夜襲を敢行したが、いずれも失敗に終わり、騎兵隊将兵は陣地から一歩も引かずに守り続けた。

<11月30日>
朝、第12騎兵連隊第2大隊は敵の陣地を攻撃するために前進を開始し、F中隊の活躍によって、その日の終わりまでに約100名の敵兵を殺害したが、夜になると再びジャップの部隊が高地に留まってそこを占領し続けた。
第12騎兵連隊の関心は、引き続き、補給線上を横断する形で布陣していた強力な日本軍部隊に向けられていた。すでに飢餓状態に陥り始めていた第1大隊の将兵にとっては、兵糧攻めを受けた現状を何とかする事が至上の命題となっていたが、補給はまったく途絶したままであった。補給計画を担当する師団参謀第4部のフランシス・ドーアティ中佐の指揮の下、前線将兵に届けるための多くの補給物資が集積された。山岳地帯を通る道路の入り口にあった前衛の山の上では、第12騎兵連隊が補給拠点と原住民の野営地、野戦病院、それに休憩地点を一カ所に集めて開設した。ここでは、家族と離れてしまった約300名の現地人担送要員が、ゲリラ部隊によって守られ駐留していた。これらの現地人支援要員らは、一回あたり6日間の契約で雇用されており、フィリピン人指揮官の許可なくしては勝手に持ち場を離れる事は許されていなかった。この時は、食糧の補給こそが最も重要な問題であり、フィリピン人要員の頑張りなくしては達成できないものであったため、この処置は致し方ない事であった。彼らは、武装兵によって周囲を守られる形でこの補給拠点を出発し、食糧を担いで前線までの困難な道を歩いたのである。一組のペアに対して割り当てられた、食糧や武器弾薬を含む様々な補給物資は、総量50ポンドにも及んだ。丘陵の急斜面に続く細くて狭いぬかるんだ道は、谷間の急流を越え、深いブッシュの中に続き、ついに周囲は雲に覆われるほどになった。3マイルの道を進むのに、5時間はかかるのである。500フィート以上の急斜面を登る麓には、中継地点としてもう一つの補給拠点がおかれていた。物資を届けるべき前線部隊は、そこからさらに一日以上歩かねばならない場所にいた。敵が時折出没する地域に近いその中継地点には、さらに300名のフィリピン人輸送要員が待機していた。これら待機していた300名の輸送要員らは、そこから前線部隊に向かって最後の行程を歩き始め、一方でそこまで最初に荷物を運んだ要員らは、再び今来た道を引き返し、さらなる物資の補給に向かった。この緻密に計画された輸送システムは、やがてジャップの部隊が輸送路を完全遮断するに至って破綻し、その道路の確保を巡って起こった戦闘は、まさに生存をかけた戦いとなったのである。

<12月2日>
2348高地では、第12騎兵連隊第2大隊が引き続き、ジャップによる激しい抵抗に苦しんでいた。この地域では、他の山岳地域における戦闘と同様、敵の攻撃は実に激しいものであった。敵の斥候の展開具合を見る以上、オルモック渓谷における上りや下り道で敵と遭遇しないように、何とかして高地を占領しようと企図しているようであったが、進撃してくるアメリカ軍によって敵はすでにかなり圧迫されつつあり、それ以上後退してしまえば、高地の奪取というその目的を達成出来なくなってしまうのは明らかであった。12月2日から3日にかけての夜、敵は第2大隊の一角に対して強力な夜襲を2度実施したが、それらは第271野戦砲兵の支援射撃を受けて頓挫した。副大隊長でテキサス州エルパソ出身のチャールズL.タウンズ少佐は、この先頭における勇猛果敢な指揮によって表彰された。3日間にわたり、タウンズ少佐の大隊は、2348高地の占領を目指して激しい戦闘を続けたが、重厚な塹壕群の中から攻撃してくる強力で重武装の敵部隊によって撃退されてしまった。そのため、タウンズ少佐は勇敢にも増援部隊を率いて、山を大きく越えて迂回し、そこから強力な敵の防衛部隊を突くという任務に自ら志願をした。こうして翌朝の朝には理想的な位置から攻撃を仕掛けられる場所にまで何とか移動したタウンズ少佐は、その夜にはそこで塹壕を構築して部下を待機させた。しかし、夜の帳が落ちてすぐ、ジャップの部隊は機関銃による凄まじい射撃と擲弾筒攻撃を浴びせながら、狂信的な「バンザイ突撃」を敢行して来たのであった。この攻撃によって多くの死傷者を出したにもかかわらず、タウンズ少佐の兵たちは敵の攻撃を何とか食い止め、やがてついにこれを撃退したのであった。この二度の夜襲の間、タウンズ少佐は自らに降りかかる危険をものともせず、冷静な勇気と任務に対する不動の決意をもって自ら最前線の陣地に足を運び、そこで個別に戦闘指揮を執ったのであった。その戦闘の最中も、敵の激しい銃火の前に少佐の命は常に危険にさらされていたが、鮮やかな指揮で各種支援火器をもっとも効率よく撃ち込める場所に配置させ、それをもって敵に甚大な損害を与える事に成功した。最後に行われたもっとも強力な敵の攻撃においては、少佐は敵からわずか10ヤードの至近距離で無線を使い、砲撃支援の要請を行ったのであった。その後、タウンズ少佐の部隊は敵に対する反撃を開始し、結果として日本軍部隊は戦列を一気に突き崩され、多くの死傷者を残したまま算を乱すようにして退却していった。この攻撃によって、大隊主力は翌朝に攻撃を実施し、敵陣の制圧に成功した。

<考察>
 以上のような2348高地(716高地)を巡る激しく困難な戦闘経過が戦史に記してあることの裏返しには41連隊を含む日本軍の勇戦・敢闘があったと見做して間違いない。この「Starvation Ridge」(飢餓稜線)における戦いに耐えた第12騎兵連隊第1大隊は大統領からの感状を受ける事となった。
第1騎兵師団戦史には総括的に次のように記されている「脊梁山脈での戦闘は、レイテ作戦においては特筆すべき勝利となった。第1騎兵師団の将兵らは、峻険で深い密林地帯が広がり、雨と泥でぬかるんだ地形にも負けずによく敢闘した」。41連隊を主軸とする日本軍もまた米軍と同じ環境の中、弾薬・食糧の補給も無く、現地住民の協力も無い中で、米軍から鹵獲した武器弾薬で守りを固め、米軍の補給路を襲撃して食料を奪う等、ゲリラ戦で米軍を苦しめた。圧倒的な砲爆撃に対しても地の利を生かした陣地構築により、砲撃による被害を最小限にとどめて兵力を温存した。脊梁山脈における戦いは、米軍の得意とする制圧砲爆撃の後に戦車を先頭にして前進するという攻撃スタイルが取れなかったことにより、雨に打たれ泥にまみれた人間対人間の戦いとなったと言えるのではないか。
戦史によれば2348高地は12月2日に陥落したとあるが、この夜に行われたという「バンザイ突撃」はピナ山に布陣していた独立歩兵第364大隊(長・野尻大尉)によるものかもしれない。陸士54期生の遺稿集「留魂」によれば、「野尻大隊は11月29日に敵手に落ちた716高地をピナ山から猛然と突進し、激戦の末にこれを奪回した。然し、12月1日から敵は反撃に転じ同高地の争奪を廻る激闘が展開されたが12月3日、大隊長は陣頭指揮中壮烈な戦死を遂げた。」との記載がある。米軍戦史には「奪回された」との記載は無いが、激しい争奪戦が行われたことは間違いないだろう。
なお、12月2日までに第1騎兵師団は2,015人の日本兵を殺傷し、32人の日本人と91人の台湾人と朝鮮人と中国人を1人ずつ捕虜にした。対して、この作戦による師団の損失は戦死133人、戦傷490人、行方不明7人に達したという。
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by kkochan-com | 2012-07-30 13:55 | Trackback | Comments(0)

福山歩兵第41連隊のレイテ島における戦跡調査報告書④

4、レイテ脊梁山脈の現地調査
筆者は平成23年と24年の2回にわたり脊梁山脈の現地調査を実施した。戦場に実際に立つことにより今まで見えなかった物が見えてくるのではないかという思いもあった。カルメーラ・アケヒラ女史の尽力によりカリガラの隣町カポーカン警察署の協力を仰ぎ、517高地の登山口Monloy村のEyok氏の案内により、現地調査が実現した。

<登山口より517高地を遠望 手前の台地右手に前進陣地>
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平成23年6月28日、現地住民が言うところの通称「ジャパニーズ・ホール」に4人の住民と共に案内してもらった。約3時間がかりで登った山はGPSで計測したところ北緯 11°14′52.6″ 東経 124°37′44.4″ 標高675mであった。レイテ島の地図と照合し、日本軍の692高地(バディアン山)と推定された。両側が切り立ったナイフリッジ状の尾根に多数残るタコツボ陣地を発掘したところ、米軍の軍靴、医薬品の壜が出土し、米軍が占領していたことが判明した。
30日には尾根続きにあるという「ジャパニーズ・キャンプ」に案内してもらった。692高地よりさらに奥地であり、アップダウンの続く厳しい山道を辿り到着した場所には692高地より多数の塹壕が掘られており、一見して強固な陣地跡であることが確認できた。GPSで計測したところ北緯 11°14′33.7″東経 124°37′30.5″標高690mであり41連隊の正岡大隊が布陣した716高地(2348高地)と推定された。塹壕を発掘したところ多数の薬きょうが出土したが、あいにく雨天となったため短時間の調査しかできなかった。来年の再調査を期して下山した。
現地住民によれば、戦後この山域に足を踏み入れた日本人は筆者が初めてとのことであった。リモン峠で戦った第1師団遺族会の相原氏や第26師団の重松氏にお尋ねしても、現地に慰霊団や遺骨収集団が入った形跡は無いそうだ。

692高地で出土した米軍の薬壜
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716高地で出土した薬きょう
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平成24年7月18日~20日にかけて2回目の現地調査を実施した。今回は山中にキャンプを張る2泊3日の予定であり、現地住民8名の協力を得ることができた。手分けして食料・飲料水・テント・シャベル等を背負って登り、716高地の一角にベースキャンプを設営した。キャンプは立ち木を蛮刀で切り倒し、高床式のデッキを設営してブルーシートの屋根を被せたもので、1時間程度で完成させた手際の良さには驚いた。また、夕食では日本兵も食べたであろう山中に自生するソテツやバナナの木の芯を採取し、焚き火で蒸し焼きにして食べたが、予想外に美味しかった。

今回の現地調査の目的は以下の通りである。
①716高地の陣地の詳細を調査し、規模等を推計する。
②41連隊が布陣した証拠を探索する。
③戦死した将兵の遺骨を探索する。
④41連隊の脊梁山脈における行動経路を推定する。

7月18日午後、まず716高地の陣地全体の実況見分を行った。筆者らのキャンプは陣地の東端にあたり、標高は670m、南北は絶壁となった尾根が西方向に繋がっている。陣地は東西300~400m、南北が30~40mという尾根上にあり、経路を辿ると道の両側には数百人を収容可能な多数の壕が掘ってあり、徐々に標高が上がり700mを越えたところで背の高い葦の草原となった。例えるならば楠木正成が立てこもった千早城を髣髴させる天然の要害であり、現地住民の証言によれば、米軍は716高地を攻めあぐね空中よりナパーム弾で焼き払ったという。それゆえに現在でも草原なのかもしれない。頂上は標高700mを少し超えており、「716」の数字はほぼ正確だ。頂上から東側はカリガラ平野からサンファニーコ水道、米軍の上陸したドラグの海岸線まで遠望することができ、レイテ戦の戦況全般を掌握することができるポイントであった。住民によれば西側はオルモック渓谷のカナンガを遠望することもできるそうだ。山頂にはなぜか深さ4mの巨大な穴が掘られており、おそらく「山下財宝」を探す何者かが掘ったものと想定された。頂上一帯から西側の稜線にも塹壕は多数あり、なぜここに塹壕が掘ってあるのか、ジャングルの中で目を凝らすと「射線」をよく考えていることがわかる。当時の指揮官が何を考えて、この陣地を構築したかという点が見えてきた。

<716高地の塹壕の配置>
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青:ベースキャンプ 緑:経路 赤:山頂 黒丸:塹壕 ----------------100m

7月19日、鳥の声で目覚める。このジャングルの木々のざわめきと鳥の鳴き声は日本兵も聴いたであろう。この日は金属探知機を使用して100を超える塹壕をチェックして反応があれば発掘した。その結果、ガスマスクからホースで連結された濾過缶、ヘルメット、飯盒、96式軽機関銃の弾倉、擲弾筒の信管等、いずれも旧日本軍の装備や兵器を発見し、ここに日本軍が布陣していたことは証明された。

<出土した日本軍の装備等>
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巨岩を利用した塹壕跡
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by kkochan-com | 2012-07-30 13:52 | Trackback | Comments(0)

福山歩兵第41連隊のレイテ島における戦跡調査報告書⑤

7月20日、716高地からピナ山方面に向かう経路を調査する。現地住民によれば戦前からの道であり、山道を見下ろす位置に多数の塹壕が掘ってあり、道に沿った岩には多数の弾痕が残っていた。住民によれば、この道がカナンガまで続いているそうだ。山頂からは米軍の砲弾片も多数出土し、ダイヤルの付いた遅発信管も見つかった。米軍が執拗に砲撃した証であり、日本兵はすぐさま尾根の裏側に退避したことであろう。また、今回の調査では残念ながら遺骨はまったく発見することができなかった。日本兵の遺体はおそらく米軍が戦場掃除を行い集団埋葬したと想定される。その場所について現地の樵から情報収集し、米・第1騎兵師団に資料が残っているか引き続き資料収集にも努めたいと考えている。

<調査に協力してくれた住民とともに>
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下山後、517高地からカリガラ平野に伸びる舌状台地に日本軍の塹壕が残っていると聞き、調査に行った。その台地にはカポーカンの町から旧道が延びており、標高50m程度の場所に複数の塹壕跡が見られた。おそらく41連隊が517高地の麓にたどり着き、最初に布陣した場所と推定された。筆者はここを「前進陣地」と命名したが、41連隊はここから517高地(ミノロ山)山頂に繋がる道をたどり、その後尾根伝いに692高地(バディアン山)から最終的に716高地(正岡大隊)とピナ山(西田大隊)に立てこもったのではないだろうか。以下にその推定経路を図示する。

<レイテ島1/50000地図>
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<考察>
大岡、御田、田中の3人はいずれもレイテ戦の従軍経験は無く、現地調査も行っていない。戦場は現地に行って見てわかることも多いのではないだろうか。517高地はよく目立つ独立峰であり山容も比較的なだらかで、ここに布陣していては砲爆撃の標的となり長期布陣は不可能であったと考えられる。ただし、平野部とのアクセスは良いので、食料の調達には適地であった。692高地は急峻な崖に囲まれているものの頂上は狭くカリガラ平野からの見通しも良く、517高地同様に砲爆撃の標的になったであろう。そして早い段階で米軍が陣地を構築し、西側の716高地攻略の前線基地として使用されたのではないか。大岡や御田の著書にあるような「716高地の米軍が517高地の41連隊を側面攻撃した」ということは考えにくく、716高地は守るには良いが、ここを拠点に打って出るような地形ではない。さらに716高地は517高地北側を流れるナジソン川沿いに浸透してくる米軍の動きが手に取るように把握できる要地で、前後は急峻な崖で守られた天然の要害であった。後方のピナ山方面からの補給路も確保されており、いざという時には撤退ルートにもなった。ゆえに41連隊がここに布陣しなかったとは考えにくく、実際に日本軍の装備が多数発見された。
102師団参謀長の和田大佐の手記に記載されている716高地に布陣した正岡隆少佐(陸士54期・今治市出身)は、マレー作戦におけるゲマスで豪軍の待ち伏せ攻撃を受けた経験、東部ニューギニアにおけるジャングル戦の経験、ジャングルで生活する知恵、ギルワ陣地の砲爆撃に耐えた経験を持つ歴戦の指揮官であった。ゲリラ顔負けの偽装陣地からの待ち伏せ攻撃により米軍に手痛い損害を与え、猛烈な砲爆撃に耐える陣地構築により粘り、米軍をして「レイテ作戦における特筆すべき勝利となった」と言わしめた。今後の課題は、国内で発行されているどのレイテ戦記にも掲載されていないこの戦いぶりを世に表すにはどうしたらよいかである。67年前の陣地跡の保存状態は極めて良く、多くの塹壕が掘られたままの状態で残っている。従来の慰霊活動が終息しつつある現在、新たに「戦跡巡り」というような趣味が広まっても良いのではないか。

<716高地頂上よりカリガラ方面 前方の517高地が砲撃の盾になる>
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by kkochan-com | 2012-07-30 13:34 | Trackback | Comments(0)

知事が鞆の架橋計画を撤回

7月9日、広島県主催の「鞆地区の地域振興に関する住民説明会」に参加した。残念ながら架橋を望む多くの住民がボイコットした。8年前の市長選における羽田市長の公約の1丁目1番地は「鞆港の埋め立て架橋」であり、市長を説得せずに長年にわたり架橋を待ち望んできた住民を説得することはかなりの困難が予測される。市長は政治生命を賭けて架橋を推進してきたのだから、その市長に翻意を促す知事の責任は重大だ。政治は数字や「良い・悪い」だけでは決まらない、感情にも左右されるのだ。ところが世間の評価はどうも市長に分が悪い。架橋にこだわる市長や鞆の住民を批判するのはたやすい、しかし合意が得られなければ知事のトンネル案も前進しないだろう。
ここまで書くと、大田は市長寄りだと言う人もいるだろう。しかし、私は市長寄りでも知事寄りでもない。そもそも架橋案は30年前の車社会を前提とし、街中の通過交通の排除を主眼に置いたものだ。その点は今回知事が提案したトンネル案と同じだが、車社会はすでに衰退傾向にあるということに知事も市長も気付いておられるのだろうか。今後の福山市の生産者人口は減少し、65歳以上の高齢者が増加の一途をたどる。20年もすれば車で通勤する人も観光に来る人も大幅に減る。つまり架橋もトンネルも先行きの短い計画と言える。
知事も市長も、鞆の活性化策は「観光」と位置づけているが、今後50年という長期的なスパンで観光客を鞆に呼び寄せ、永続的な産業として雇用を確保するには、公共交通の整備が有効と考える。私の案は昭和29年まで福山駅と鞆を結んでいた「鞆軽便鉄道」の復活だ。幸い駅前から水呑まで4車線となっており、軌道を敷設するスペースはある。広島駅から宮島まで走る民営の広島電鉄と同じイメージで良い。ラッキョウ列車の形をしたLRT(路面電車)が田尻の坂を越え、瀬戸内海に浮かぶ仙酔島が見えた時の素晴らしさは宮島線を超えるのではないか。
(経済リポート H24.8.1掲載)
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by kkochan-com | 2012-07-29 14:39 | Trackback | Comments(0)

変革する福山市議会

改選後の6月市議会・本会議から一問一答方式での質問が始まった。しかし、マスコミの報道は賛否が分かれ、中国・読売・山陽の3紙は「分かりやすい」という傍聴者の意見を掲載した反面、朝日は「活発な議論はみられなかった」、毎日は「丁々発止みられず」と批判的であった。国会における議論と比較したようだが、国会は閣僚(与党議員)と野党議員による議論であり、敵・味方の関係にあるから白熱もするし、揚げ足取りもする。対して地方議会は行政職員(官僚)と議員による議論であり、その筋の専門家と対等に議論するには冷静さが必要であり、何も大声を上げ、机を叩くことが丁々発止ではない。いかに良い答弁を引き出し、良い方向に市政を向かわせるかが議員の仕事だが、朝日や毎日の記者には理解できなかったようだ。

ところで今議会で最も議論が分かれたのは「震災がれき問題」であった。受け入れるべきという議員、受け入れるべきでないという議員、受け入れは現実的でないという議員と3派に別れた。私は最後の意見だが、その根拠を一般質問の質疑において以下の4点明らかにした。①広域処理を必要とするがれきの量が当初見込みより4割も減った②被災地における処理体制が整ってきた③焼却灰を埋める最終処分場からの浸出水を数十年にわたり監視する必要がある④福山までの運搬コストはトン当たり7~8万円かかる。これらを受けて市長も受け入れは「未定」とした。

そして6月議会最終日に議会として国に対し「意見書」を提出した。議員それぞれの考えは違うが、共通した思いとして「国ががれきの広域処理を推進したいのであれば、安全性に対して説明責任を果たし、問題が発生した際には事後責任を取ると確約するべき」という内容だ。ところが、これをがれきの受け入れを推進する意見書と理解した議員もおり、全会一致で賛成とはならなかった。賛否の分かれる問題は曖昧にしておくことも政治手法かもしれない。(経済リポート7月1日号掲載)
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by kkochan-com | 2012-07-03 09:15 | Trackback | Comments(0)

新任議員の紹介

7月2日の新聞に折り込まれていた「ふくやま市議会だより」の裏面に40人の議員全員の顔写真が掲載されていますので、ご紹介します。
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by kkochan-com | 2012-07-02 09:16 | Trackback | Comments(0)

スイムランうつみ

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今日は内海町のクレセントビーチで有志により「スイムランうつみ」が開催されました。
主催者はトライアスロンの世界では有名な山口伸治君で、内海町を「スポーツアイランド化」しようという彼の声かけで14名の選手が集まり、地元の方が漁船を出したり軽食を用意してくださいました。
ビーチの前に浮かぶ矢ノ島を泳いで一周(1.3km)し、田島の周回道路を約6km走るコースで、私はスイム終了時はビリから2番、ランで追い上げて8位(1時間7分)フィニッシュでした。ちなみにトップの山口君は44分でした!
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by kkochan-com | 2012-07-01 09:22 | Trackback | Comments(0)