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ニューギニア慰霊の旅に参加して③

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7月19日(火)
 今日は南海支隊全滅の地ギルワ・ブナ方面の慰霊祭です。慰霊ツアーの日程の中でも最も重要な一日となりそうです。出発前にオロ州の前知事ニューマン・モンガキ氏がロッジに現れ、西村さんとの再会を喜んでおられました。西村さんは遺骨収容を円滑に進めるため、ポポンデッタの発展に随分と協力してくれたそうです。一行はまずはギルワを目指しますが、道路事情は悪く車の天井に頭を打ちつける悪路の連続です。ようやく着いたギルワの慰霊碑周辺は現地住民によりきれいに草刈がされ、慰霊碑には花が飾られていました。西村さんによればここは144連隊本部跡地であり、ここから300mほど離れた場所では豪軍のM3戦車に対して爆雷を抱えた日本兵による肉薄攻撃が行われたそうです。爆雷ごと戦車のキャタピラの下に飛び込んだり、戦車に飛び乗って天蓋を開けて手榴弾を投げ込み戦車を撃破し、戦車に積んだ砲弾が次々と誘爆して花火どころではない大爆発だったそうです。

 ギルワにおける慰霊祭で読み上げられた追悼文は涙なくしては聞けませんでした。田村さんは「お父さん、やっと迎えに来たよ。一緒に帰りましょう」と呼びかけ、田村さんの姉の近藤さんは、お父さんが戦地から娘たちに送ってくれた手紙を朗読されました。姉妹の父の竹下牛松兵長は東山信彦少尉の部下であり、数奇な運命を経て戦後48年ぶりにオーストラリアから帰ってきた東山少尉の陣中日記の中に竹下兵長の活躍が度々記されていたのです。東山少尉と竹下兵長は上司と部下の関係を超えた絆に結ばれていた様子で、竹下兵長は負傷した東山少尉のために壕を掘り、同じ壕の中で1分間に数百発という猛砲撃に耐え、常に東山少尉を支えてきました。ギルワ陣地の末期が迫った頃、東山少尉は潜水艦で陣地を脱出する誘いを受けましたが、部下を残して自分一人が脱出するわけにはいかないとして誘いを断り、静かにジャングルの中に消えたそうです。これらは「祖国はるかなれども ニューギニア戦 ブナ日記 東山信彦遺稿集」に記載されています。そして姉の近藤さんは10年前にもこの地を訪問されていますが、その時に現地に預けた遺稿集が大切に保管されていることを知り、感激されていました。
 同様に遺族の花井さんも昭和37年に父・倉橋一美さんの日記がオーストラリアから返還されました。読ませていただくと「妻子を残しては死ねない、絶対に生きて帰る」と記されており、妻子を想う気持ちが痛いほど伝わってきます。このように戦地における様子が遺族に伝わることは本当に稀なことであり、霊魂というものはやはり存在するのではないかという確信に近いものを感じました。

 ギルワの後は野戦病院跡であるサナナンダにも行く予定でしたが道が悪いのであきらめ、海路ブナに行く予定も変更となり、またしても行きの悪路を戻りブナに向かいました。高齢のご遺族にとっては本当に大変だったと思います。ブナは海に面した美しい部落であり、ここが昔戦場であったとはとても想像できません。ブナは西村さんによれば仲の悪い陸軍と海軍が一致団結して戦った稀に見る戦場で、144連隊連隊長の山本大佐が戦闘指揮を執り、海軍陸戦隊の安田大佐が弾薬補給等を担当したそうです。両指揮官ともに人格者であり、後方の安全地帯にあった司令部を前線に出すなど、指揮官が先頭に立った様子が伝えられています。
 そしていよいよブナ守備隊最後の日となった昭和18年1月2日、山本連隊長は豪軍を前にして「日本語のわかる者は前に出よ」と呼びかけました。そして落ち着いた声で語りかけたそうです。「今君達は勝ち誇っている。物資をやたらに浪費してわれわれを圧倒した。わが軍は一発の弾といえども粗末にはしなかった。今に見よ、必ずや日本が勝利を得、正義が世界を支配するに至るであろう。私を撃つのはしばらく待て。日本軍人の最後を見せてやるからよく見ておけ。大日本帝国万歳。天皇陛下万歳。万歳。万歳」ここで切腹され「さあ撃ってよろしい」。そこで敵の一斉射撃が起こり戦死されたのです。戦争に「たら・れば」を言ってもしかたありませんが、元日本兵の多くは「弾と食料があれば決して負けなかった」と証言されています。
 戦後、サナナンダに粗末な戦争博物館ができ、日本兵の頭骸骨が見世物として長期間にわたり展示されていました。その頭骸骨は銀の入れ歯をしていたことから山本連隊長のものである可能性が高く、関係者の強い働きかけによりつい先日返還され、千鳥ヶ淵の墓苑に収められたそうです。
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 ブナの部落の皆さんは私たちを伝統的な踊り「シンシン」で迎えてくれ、やはり慰霊碑は花で飾ってくれていました。ブナの慰霊碑は昭和30年に政府の遺骨収集船「大成丸」により建てられ、題字は吉田茂首相によるものです。しかし、パプアニューギニアが独立して以来、慰霊碑の建つ土地にも固定資産税がかかるようになり、それを日本国政府に代わり西村さんが負担してきたそうです。何度も大使館等に掛け合いましたが未だに政府は知らぬ・存じぬという姿勢であるということです。本当に情けない話です。ブナの慰霊祭で私は府中市生まれの安田義達大佐(死後中将に昇進)の追悼文を読み上げましたので、以下に紹介します。

                          追悼文 安田司令以下ブナ守備隊の皆様へ

 本日、ここ激戦地ブナにおいて南海支隊戦友遺族会による慰霊祭を執り行うに当たり、謹んで祭文をささげます。
 顧みれば、ブナ守備隊の皆様は昭和17年11月19日から米豪連合軍の攻撃開始から、翌18年1月2日に玉砕するまで戦い抜かれました。とりわけ海軍の横須賀鎮守府特別陸戦隊司令の安田義達中将は、私の住む福山市の北隣の府中市のお生まれであり、先日、安田中将を敬愛する後藤慶四郎様のご案内により金竜寺にお墓参りに行かせていただきました。
 安田中将は横五特292名、佐世保鎮守府第五特別陸戦隊110名、第十四設宮隊399名の指揮を執られました。その初戦の敢闘に対してマッカーサーは指揮官ハーディングを攻撃精神に欠けるとして解任し、後任者アイケルバーガー中将に「ブナを取らねば生きて帰るな」と厳命したそうです。12月末には福山歩兵第41連隊矢沢大佐率いる救援隊がブナに向かうも間に合わず、安田中将は「皇国の隆昌と各位の武運長久を祈る」という決別電報を打って最後の突撃を敢行し果てられました。
 安田部隊の全滅こそが昭和18年5月のアッツ島守備隊玉砕に先立つ太平洋戦争における最初の玉砕でした。オーストラリア戦史には「戦闘が終わり日本軍陣地を点検しうるようになってみると、人間というものが、どうしてこんなひどい環境に耐え忍ぶことができるのか、しかも生存しうるのかと疑わざるを得なかった」と記載されています。戦友の屍を盾にし、皆さんは祖国にため家族のために最後まで死力を尽くして戦われました。戦いに敗れたとはいえ、米国公刊戦史をして「世界第一の猛闘 (Toughest Fighting in the World)」と言わしめたその健闘は誇るべきものです。
 現在の祖国・日本の現状は、安田中将をはじめ英霊の皆様の戦いに恥じない国造りが行われたとはとても言い難い現状にあります。私たちはこのブナの地において皆様の霊の安らかならんこと祈念しつつ、改めて日本国の再建に向けて取り組む覚悟であることをお誓い申し上げ、追悼の言葉とさせていただきます。
                                             平成23年7月19日
                                          福山市議会議員 大田祐介

 続いて遺族の川添さんが追悼文を読みました。「お父さん、戦後近所のお友達が戦地から帰ってきたお父さんの自転車の後ろに乗せてもらっているのを見て、私はお母さんに言いました。私もお父さんが帰ってきたら自転車に乗せてもらうの。まだ若かった母はそれを聞いて号泣したそうです。そして親戚や近所のおじさんたちが、よっちゃん自転車に乗せてやろうと言っては、あちこちにサイクリングに連れて行ってもらいました。こんなに皆さんからかわいがってもらった私ですから、人一倍幸せにならないといけませんよね。今、子供達も巣立ち私はとても幸せです。」ヤシの木が風にざわめき、波の音とともに心地よいハーモニーを奏でていましたが、川添さんは「お父さんもこれを聞いたはずよ」と私に話してくださいました。
 最後に高知県議の中西議長より高知県知事から西村さん宛ての感謝状が手渡されました。今回訪問した激戦地の多くには高知県の慰霊碑があったのに対して広島県や福山市の慰霊碑は皆無であり、同じ南海支隊とはいえ随分と温度差を感じました。

7月20日(水)
 今日はいよいよ帰国の日です。5時半起床で荷造りと朝食を済ませポポンデッタの空港に向かいます。ところがポートモレスビーから来るはずの飛行機がいつまでたっても現れず、結局2時間ほど待つことになりました。ニューギニアでは何が起こるかわからない、日本の常識は通用しないと聞いていましたのでそれほど驚きませんでした。待っている間にいかにもココダトレイルを歩いてきたような3人組に声をかけるとやはりそうでした。3人はアメリカのテネシーから来たそうで、素晴らしい経験だったそうです。
 飛行機が遅れた関係でその後の予定はかなりタイトになり、土産物購入はキャンセルして日本大使公邸に向かいました。一行は橋大使より歓迎の挨拶を受け、なごやかな雰囲気で意見交換が行われました。橋大使は多くの日本の若者たちにニューギニアの戦跡を訪れてもらう計画を練っておられたので、私からぜひココダトレイルツアーをやりたいと提案させてもらいました。大使曰く、ニューギニアには親日家が多く、ブーゲンビル島ではあの山本五十六大将にちなんだ「ヤマモトロード」も作られているそうで、何事も非常にやりやすく感謝しているとのことです。天然ガス等の地下資源も豊富であり、ぜひ大使が先頭になって日本との交流をさらに発展させていただきたいものです。ちなみにポートモレスビーの空港は日本のODAにより建設されたそうです。空港で慌ただしくお土産を買い、14時の飛行機で一路成田に飛び立ちました。台風を避けながら成田には21時頃到着し、その日は空港近くのホテルに宿泊しました。
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7月21日(木)
 大きな荷物はホテルから宅配便で送って身軽になり、神田駅前のタマキスポーツに寄った後、千代田区役所隣りのエアニューギニア日本支社を訪問しました。島田支社長に今回の慰霊団の様子をお知らせすると喜んでいただけました。その後、千鳥ヶ淵戦没者墓苑に行き花を手向けてきましたが、これで今回の旅の締めくくりができたように感じました。皆さんも東京に行かれた際はぜひ千鳥ヶ淵を訪れることをお勧めします。そしてそこに収められた無名の(引き受けてのいない)約240万人分の海外戦没者のご遺骨に心からの哀悼の誠をささげていただきたいものです。私は今回の経験をより多くの方に伝え、ニューギニアの戦没者に対して少しでも関心を持ってもらうことが今後の使命であるように感じています。
by kkochan-com | 2011-07-20 22:29
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