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シンガポール・マレー半島の福山歩兵第41連隊の足跡を訪ねて②

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9月1日(木)マレーシアからシンガポールへ
 朝起きてゲマスの町を散歩してみたが、20分もあれば一周できるほどの町だった。しかしゲマス駅は新駅を建設中であり、数年後には大きく様変わりしていることだろう。昨日両替してもらったインド人が経営するカレー屋さんに行き、カレーを食べながらインドと日本の関係や、マレーの虎「ハリマオ」について話をした。そのうち昼が近づいたので駅に向かい、12:12ゲマス発シンガポール行きの列車を待つ。列車は20分ほど遅れて発車し、道中もたびたび長時間の停車があった。セガマット、クルアンと通過して、ジョホールバルに到着したのは早や16時過ぎ。ここで車内に乗ったまま出国審査を受け、そしてシンガポールのウッドランズ・トレインチェックポイントで下車して入国審査を受けた。そのままイミグレーションのトイレで自転車に乗る服装に着替え、駅から出るとすぐ自転車を組み立てた。列車が遅れたせいですでに17時が近い。ここからダウンタウンまで30km以上あると思われるが、日が暮れるまでに行けるところまで行くことにする。

 まずは3~4㎞先の英軍戦没者が眠る「クランジ戦没者墓園」を目指すが道に迷い、到着は18時近くになった。広大な墓園には見渡す限り白い墓標が整然と並び、夕暮れが近いにもかかわらずイギリス人旅行者が数組訪れていた。墓守に話しかけてみると彼はインド人であり、先の大戦でインドと日本がともに戦ったと言い握手を求めてきた。マレー作戦当初、インド兵は英軍とともに戦ったが、シンガポール陥落後にインド兵たちは日本軍の諜報機関「F機関」の藤原少佐の呼びかけにより日本軍の傘下に入り、インド独立を目指して日本軍とともに戦うことを約束した。その後のインド国民義勇軍とともにインド進攻を目的とした実施された「インパール作戦」は戦術的には大失敗だったが、日本軍はインド人と交わした約束を守ったとも言えるのではないか。
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 クランジからはブキテマ・ロードを一直線に走るので迷うことは無いが、夕方のラッシュと重なり自転車ではヒヤッとすることが何度かあった。しかし30分も走るとブキバンジャンを通過して前方にブキテマ高地が見えてきた。このブキテマ高地が日英最後の激戦地であり、シンガポール陥落前の死闘が行われた場所である。その最前線であったアダムロードに到達したところで19時近くになり、ここで自転車を折り畳み、タクシーを拾ってホテルに帰った。上陸地点から最前線まで自転車で1時間余りの距離だったが、日本軍はこの距離を進むのに約1週間かかったわけだ。しかも、この1週間でマレー半島縦断における戦死者と同等の戦死者を出すほどの激戦だったという。すっかり近代化したシンガポールの町並みだが、当時とほぼ同じルートをたどることにより何かしらの感触を得たことは確かだった。
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9月2日(金)激戦地アダムパーク訪問
 今日が滞在最終日であると同時に最も大事な日である。昨日訪れたブキテマ高地を走るアダムロード沿いには「アダムパーク」という20軒ほどの高級住宅街があり、なんと戦前から変わらずそのままの姿を保っている。スクラップアンドビルドが繰り返されるシンガポールにおいて奇跡とも言える地域である。今回の訪問の最大の目的は、このアダムパークの戦いをシンガポール攻防戦の縮図と捉え、その歴史的検証「The Adam Park Project」を行っているジョン・クーパー氏と面談することであった。氏はこの局所的な研究がシンガポール戦全体の検証に繋がると考えている。
http://www.gla.ac.uk/departments/battlefieldarchaeology/centreprojects/singaporewwiiproject/ 
 ジョン・クーパー氏はイギリスのグラスゴー大学で軍事考古学(Battlefield Archeology)を専攻されており、実際にアダムパークの住宅街の中で金属探知機等を使用した発掘調査を行っている。そしてその出土品を元に歴史の裏付け作業とも言える検証を行っている。このアダムパークの戦いは昭和17年2月14日、すなわちシンガポール陥落の前日に行われ、イギリス軍は新鋭のケンブリジシャー大隊、対する日本軍は友野幾久治大隊長率いる福山第41連隊第2大隊であった。日英双方の文献や資料、生存者の証言等を集め偏りの無い研究を目指しておられたが、いかんせん研究開始当初は日本側の資料が不足していた。そして約2年前に協力依頼のメールをいただいて以来、私なりに生存者を探して証言を聞いたり、参考文献を知人に託けたりしてきた。特に役立ったと思われるのが、「福山聯隊史 マレー・バターン編 片岡修身著」に登場する岡今朝像中尉率いる第2機関銃中隊の戦闘状況と、「人間の記録・マレー戦 御田重宝著」に登場する宮久保正幸軍曹の陣中日記であった。
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第2機関銃中隊について「福山聯隊史」P92より引用する
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昭和17年2月14日・福山歩兵第四十一聯隊第二大隊(長=友野幾久治中佐)の行動
2月14日の暑熱は、際限なく上昇するようだった。
もう誰の水筒を振っても音を立てない。
おりから夕焼けがはじまろうとして、薄いセピア色の紗を張るように夕暮れがやって来た。弾道のうなる空は、みごとに赤く映えて、鮮冴な夕焼けがクライマックスに達していた。
ぽつんぽつんと星が現れてきた。
福山歩兵第四十一聯隊の第二機関銃中隊長の岡今朝像中尉は、全員集合と声をかけた。
「いまごろ何ごとやろうな!」と兵隊は呑気な顔をして集まってきた。
集まって中隊長の顔を見て、みんな「はっ」とした。
何かあったんやろうな-と兵は小声で言っていた。
岡中隊長はみんなの顔を見まわし、静かな口調で
「ただいま命令がきた。われわれは敵陣ふかく入ることになった。みんな不肖中隊長の下にあって、いままでじつによくやってくれたが、この度こそはみなの生命は中隊長が貰わねばならぬ。覚悟してくれ。親しい人には最後の別れを告げるために手紙を書け、岡部聯隊長からとどけられた酒もある、ゆきわたらんが飲んでくれ。この戦は世界注視の的である。福山四一として、男らしく死んでくれ」
と言う事だった。
さあ、忙しくなったぞ。
決死の出陣とあっては別れの酒も飲まにゃならんし、手紙も書いとかにゃならんし。
まず何と言っても、千人縫を出してみて、恐る恐るなぜさすりながら、千人縫を作ってくれた女性たちに、武運をお願い申し上げねばならん。
死を前にして、静かに死を考えるのは、今が始めてであった。興奮してきた。
マレー作戦に参加以来、戦場を馳駆して幾度か死を考えたことがあったが、それはいわば刹那的に閃く花火のように、決死という立場に立っただけだ。
そして兵隊たちは、きのうとはまったく別人のごとく静かに、何かしいんと澄んだようなものをたたえ、お互いの間にかってなかった程の、しみじみとした触れ合いを感じあっていた。
第二機関銃中隊の精神が一つに統一されたと言うだけでなく、新しい信頼と勇気と、愛国心が炎のごとく生まれてきた。
その時、「おーい、第二機関銃は集合だ」と岡中隊長は大声を出した。
もうだいぶ暗くなっていた。
友軍の砲撃もものすごい。ピュンピュン飛び交う銃弾、時には美しい色をした曳光弾が飛んで来る。前進したらブキテマ高地の端に、白人住宅が群立していた。ここが戦場になっていた。(※アダムパーク)
内海勇少尉と大内武生少尉とは、それぞれ小隊長として最先頭を進んでいた。
ベビー・ゴルフコースのある広々とした芝生のある豪華な2階建ての住宅群だ。
しかし、ジットラ・ライン以来大小数十回の戦闘に敗れたイギリス軍が地引網に追い込まれた魚のように、シンガポールに流れ込んでいたことを示すように、その付近には200台以上のトラック乗用車が、一台残らずフロントガラスを射抜かれて放置してあった。
少し下の家には、まだ敵がいて自動小銃を猛射してくる。これに対して一軒一軒攻撃して取らねばならない。
ダアーンと発射音につづく砲弾がそこら中に破裂して、そのたびにザアーッと頭から土砂をかぶる。頭をもたげることも、手を動かすこともできない。眼口もあけていられない激しい砲火の連続だ。キナ臭い硝煙がもうもうと立ちこめて何も見えない。「ああここで自分も死ぬのか」という一念以外は、不思議となんの想念もわいてこなかった。
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 岡今朝像氏は滋賀県大津市に存命であり、平成22年11月に面会を申し込んだが、当初は「もう戦争の話はしたくない」「歴史を知りたかったら本を読みなさい」と拒否された。しかし、そこをなんとかと押しかけて貴重な証言を得ることができ、それをジョン・クーパー氏に情報提供することができた。様々なエピソードを伺ったが、中でも部下の皿海久三兵長の死については心残りであった様子で、詳しくお話ししていただいた。

「皿海は機関銃の名手で、シンガポールに白旗が揚がるほんの1~2分くらい前に砲弾の破片を膝に受け、腰に貫通して戦死したんだ。戦後、福山の実家を訪ねて行ったら、母一人子一人の家で、お母さんがこう言った。『あの子が帰ってきた夢を見ました。でも絣の着物の膝がネズミに食いちぎられていました』それを聞いて何とも言えない親子の情を感じたよ。だから俺なんかも本当人殺しをやって、部下をたくさん殺して本当罪なことした。だけどこれしょうがなかった。本当罪なことしたよ。」
 その後、岡氏らはニューギニアに転戦し、地獄の戦場を経験しさらに多くの部下を失うが、マレー作戦で死んだ部下が一番幸せだったと言う。なぜなら「マレー作戦で勝ったから・・・ニューギニアは本当にもう捨てられた戦だったと思う。いつかは死なにゃいかんが、あぁ言う死に方はしたくないものだ。」と話された。
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続いて宮久保正幸軍曹の陣中日記については「人間の記録・マレー戦 後編」P234より引用する。
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 払暁攻撃で約千メートル前進して、住宅のある高地を激戦の末に占領した。ここは白人住宅が丘の上から道に沿って十軒ばかりあった。もうここはシンガポールの一部だ。われわれは家の床下や家の陰に壕を掘って戦った。高地の家は占領したが、少し下の家はまだ敵がいて、チェコ機銃や自動小銃を猛射してくる。われわれはそれに対して1軒1軒を攻撃して取らねばならない。(※アダムパーク)
 ここらの白人住宅は、ほとんどコンクリートで出来ているため、敵はその窓から前進肉薄してくる。十二時ころ捕虜二十人を得て、この高地を完全に占領することができた。このころ、第一線では弾薬が欠乏してきたので、私はその捕虜を連れて後方まで弾薬を取りに行った。一人一箱ずつ弾薬をかつがせるとフーフー言っていたが、ともかく第一線まで補給することができた。
 敵砲弾はだんだんと近くなり、ついにこの高地を目標に盛んに撃って来始めた。
小さな谷を越えた千メートルぐらい向こうに敵兵舎があり、その前の線に塹壕があって、チョロチョロする敵兵の姿が見える。われわれは、あまりにも砲火が激しいので、白人の住宅に入った。この家は二階建てでコンクリート造りだから、少々の砲弾は階下までは届かない。だが、敵はこの建物をめがけて集中砲火を浴びせて来たから屋根は吹っ飛び、家全体を破壊しかねない勢いだ。私たちは地下室や階段の下に入っていた。私は大丈夫と言いながら、門田軍曹と飯を食った。

 その時、一弾が正面のコンクリートの壁に当たり、大音響とともに壁は破れ、私の体は二メートルばかり吹き飛ばされて、後ろの壁にたたきつけられた。部屋の中は砲煙で何も見えず、私はてっきり「やられた」と思った。頭をひどく打たれた感じで、ちょっと立ち上がれなかった。砲煙が少し薄れると門田軍曹が飛んで来て「やられたか」と言った。その声で私はようやく立ち上がることができた。頭からコンクリートのかけらを振るい落として頭をなでてみたが、コブが三つばかり出来ているだけだった。腰につけていた短銃の皮サックが破れて、砲弾の破片が銃身に食い込んで止まっていた。不思議にも命拾いをしたわけだ。短銃がなかったら腹を破られて死んでいただろう。
 砲弾はますます激しくなる。弾を受けない家は一軒もなくなった。戦車隊が到着したが、この高地を出ていくと戦車の周りにすぐ二、三十発の砲弾が落ちて来て姿が見えなくなる。戦車もこれにはかなわず、引き返さざるを得なかった。そこここで「やられた」「衛生兵」という声がする。衛生兵も何人かが負傷したり戦死したりした。
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 そして翌日の2月15日、白旗とユニオンジャックを掲げた英軍軍使がブキテマ・ロードに現れ、フォード自動車の工場にて山下奉文軍司令官とパーシバル英軍司令官が会見し、無条件降伏について「YesかNoか」という有名なシーンが撮影された。私はアダムパークの研究調査がほぼ大詰めに迫ったことを知り、ついに現地を訪問するに至ったのである。
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 朝10時にジョン・クーパー氏と落ち合い、彼の住むコンドミニアムに向かった。なんと彼の住居はアダムパークの隣の戦時中に給水塔があった通称「ウォータータワーヒル」にあり、9階の彼の部屋のベランダからはアダムパークが眼下に広がり、手が届く距離に高層ビルの連なる市街も見える。
まず、これまでの研究成果の説明を受けた。アダムパークには水源地(トンプソン)方面から7~800名の若い志願兵を中心とするケンブリッジシャー大隊が配置されたが、彼らは実戦は初めてであったという。対する41連隊は中国戦線を転戦し、マレー戦では数々の激戦をくぐり抜けてきた精強であり、その力と経験の差は大きかった。しかし、アダムパークは後背地から市街地への境界にあたり、地の利を活かし住宅を盾にした典型的な市街戦の様相を呈し、ケンブリジシャー大隊は健闘した。この先、このような市街戦が連続したとすれば、パーシバルが降伏しなければシンガポール陥落はまだ1週間から場合によっては1ヶ月かかった可能性があるという。
 2月15日、ケンブリジシャー大隊はアダムロードからブキテマ・ロードに向けて後退したかったが許されなかった。つまり降伏するまで守備位置を離れなかったことから、局所的に見れば「勝った」と言えるかもしれないし、日本軍得意の迂回作戦により飛び越されたかもしれないそうだ。
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 発掘調査における成果も見せていただいたが、日英の薬莢や弾丸、部隊識別バッジ、ベルトのバックル等、装備品の数々の出土品があり、それぞれがどの場所から出たかにより、戦闘行動の裏付けが行われていた。たとえば機関銃の薬莢が一直線上に出土したことにより、このラインに沿って突撃(または後退)したことがわかるという。珍しい物では英軍の薬莢には中には火薬が残っており、それは湿気に強い糸状火薬であった。また、ビー玉があったので、これはおそらく日本軍のサイダーの栓ではないかと伝えておいた。
 そしてジョン・クーパー氏の案内のもとに実際にアダムパークを歩いた。道路や側溝はもちろん、No.16住宅の庭にあるベビー・ゴルフコースまで当時のままであり、おそらくこの側溝を塹壕代わりにして戦ったであろうことは容易に想像できた。次にそれぞれの住宅がどのような役割を果たしたかの説明を受けた。戦闘時にコンクリート製の強固な住宅はトーチカの役割を果たし、直後は野戦病院、陥落後は捕虜収容所や教会として使用されたという。アダムパーク隣りの95高地には日本軍戦車隊が進出したが、その戦車が砲列を敷いた位置まで特定されていた。「ここに戦車が並びアダムパークを砲撃した」と説明を受けると、69年の時空をタイムスリップしたような感覚を覚えた。
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 アダムパークの現地視察を終えた後、アダムロードに面した「シンガポール日本人会」の事務所を訪問した。ジョン・クーパー氏の研究調査「TAPP」は来年2月を目途に終了して帰国予定であり、この研究成果を私と杉野一夫事務局長に活用していただきたいということであった。3人で様々な意見交換を行ったが、戦争責任や虐殺の問題、戦後補償の問題等にかかわらず、死んだ兵士の名誉のためにもシンガポールの戦史を歴史に埋めてはならないという点で一致した。例として会津若松の白虎隊の悲話は様々な形で後世に引き継がれているし、原子爆弾による被害や後遺症についても語り部による体験の継承が積極的に行われている。しかし、南方で戦死した将兵の哀話はジャングルの落ち葉の下に埋もれてしまっている。また、その奮戦を語ることに躊躇し、批判する風潮も依然としてある。しかし、杉野氏曰く、確かにシンガポール陥落50周年の際は様々な反日キャンペーンが行われ居心地が悪かったが、それ以来20年間において面と向かって日本人批判を受けたことは無いし、シンガポール政府も日本と対立しようとは考えていないという。杉野氏は、日本人は感情に左右されやすい民族であるとし、私は終戦という大事件を境にそれまでの日本人社会が180°方向転換したが、戦史についてもそろそろ歴史の一部としてとらえ、来年のシンガポール陥落70周年には何か歴史認識の融和を図るようなイベントが行われれば幸いだと感じていると述べた。記念日に限らず、日本人観光客や在住日本人たちがこの日本人会館に隣接するアダムパークの古戦場に足を運び、父や祖父たちの世代の戦争を振り返る機会を作ることが必要ではないだろうか。ジョン・クーパー氏曰く、41連隊は中国戦線~マレー作戦~東部ニューギニア戦~レイテ戦という激戦地を転戦し全滅したし、留守部隊は原爆投下の際は広島市に救援に行き被爆し、その2日後には福山空襲に遭うなど、先の大戦の縮図とも言える部隊である。この悲劇の部隊の歴史の継承は大切な問題だと述べた。とりわけすべての戦地に従軍した正岡大尉の存在は興味深く、この地で戦ったケンブリッジ市と福山市の交流も今後の課題としたいそうだ。3者ほぼ意見が一致し、非常に有意義な意見交換ができたのではないかと感じた。戦地において自転車で同じルートを辿るという「等身大」の旅はこれで完結したが、現地で感じた感覚をいつまでも大切にしたいと考えている。
by kkochan-com | 2011-09-09 23:30
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