![]() 1、はじめに 備後の郷土部隊「福山歩兵第41連隊」は東部ニューギニア戦で全滅寸前まで戦った後、平壌で30師団に再編成されレイテ戦の援軍として急遽派遣された。しかしレイテ戦における記録はマレー作戦やニューギニア戦と比較して極端に少なく、その足跡は不明な点が多い。筆者はその行動記録を整理して後世に伝えるべきと考えるが、レイテ戦における41連隊の生存者はわずか十数名と言われており、すでにその全員が鬼籍に入っている。昭和52年に御田重宝氏が41連隊の足跡を辿った連載を中国新聞紙上で行ったが、御田氏の取材には批判も多く、中国新聞社内に記事の「検証委員会」が設けられる事態となった。そして御田氏以降、41連隊の足跡の調査が行われた形跡はない。また、再編成された際は備後地方以外の兵士も多数招集され、「郷土部隊」という色合いが薄れたことが関心の高まらない一因かもしれない。さらには市議会議長を歴任した元41連隊の門田武雄氏が開設した赤坂遊園の「41連隊記念館」も平成3年に閉館し、同時に連隊の門柱等の歴史的な資料は散逸した。連隊跡地は周囲を囲む石垣が一部残る他にその痕跡をほとんど残していないため、筆者個人の負担で火薬庫跡に「福山兵営跡地」の説明看板を設置した。 41連隊の慰霊碑は「全滅の地」とされるカンギポット山の麓のビリヤバにあるが、損傷が激しくすでに表題の文字は読めない状態となっている。ここカンギポット山周辺では戦闘らしい戦闘もなく、様々な部隊の敗残兵の寄せ集まりが米軍の包囲網の中、岩陰に身を寄せ合って砲爆撃を避けていたにすぎない。米軍は日本兵が餓死するのを待っていたのではないだろうか。41連隊の慰霊団は緒戦の遭遇戦であったトンガと全滅の地ビリヤバを度々訪れている。昭和55年には福山市とレイテ州の州都タクロバン市は姉妹都市提携を行ったが、平成14年にタクロバン市の名誉市民であった土肥政男氏が亡くなられたことにより、慰霊ツアーは10年近く催行されていない。現在は私が顧問を務める「タクロバン福山交流支援センター」による交流の旅が年1回程度行われている。 さて、筆者は縁あってタクロバン市を毎年訪問しているが、8万人が戦死したレイテ島にはまだ多くのご遺骨が眠っていることを知った。41連隊の将兵の多くも未だレイテのジャングルの中で眠っているはずだが、緒戦のトンガと全滅したビリヤバにおいてしか遺骨収容は行われていない。その間にも多くの戦闘があったはずであり、特にレイテ島を南北に貫く脊梁山脈における行動は謎に包まれている。筆者は様々な文献を調査し、戦後日本人としては初めてこの山域に足を踏み入れて現地調査を実施したので、その成果をここに報告する。 2、日本側の資料による調査 昭和19年10月25日、炭谷連隊長率いる第1大隊(長・西田少佐)と第2大隊(長・正岡大尉)約2,100名は軽巡「鬼怒」駆逐艦「浦波」他の輸送船に分乗し、ミンダナオ島カガヤンよりレイテ島オルモックに急行した。(この日レイテ沖海戦では栗田艦隊が謎の反転)10月26日、無事にオルモックに上陸、ただちにタクロバン方面で戦う牧野中将率いる16師団の援軍としてリモン峠に向けて前進した。この時、弾薬は1会戦分しかなく、以後の補給の有無は不明である。(第1師団の輜重第1連隊より若干の補給?) 10月30日、カンナガ、リモン峠、カリガラを経由してハロ近辺にまで進出、米軍(第24師団)と遭遇戦となり、圧倒的な砲撃の後に戦車に蹂躙される。それでも米軍戦車の砲身に速射砲を打ち込む等善戦し、指揮官ニューマン大佐も負傷後送されたが、41連隊の戦力は約半数となり31日夜の大雨にまぎれてカリガラ方面に後退した。この模様は唯一人の生存者である砲兵隊中隊長の佐々木寛平大尉の証言がすべてである。また、10月31日にカリガラに到着した102師団の金子参謀は「歩兵41連隊は30日ハロ西北方地区で敵と遭遇戦を演じ、敵の砲撃および戦車のため圧倒されて、一たまりもなく敗退し、11月1日、カリガラ南西方山地に拠りつつある。炭谷連隊長は1個大隊を掌握しあるに過ぎず、他の1個大隊の状況は不明」と11月3日に三十五軍司令部に打電した。ただし、この戦闘により米軍のカリガラ進出が遅れ、11月1日にオルモックに上陸した第1師団がリモン峠に展開する時間的猶予を作ったことは評価されている。 その後、517高地(カリガラ南西山地)に後退した41連隊は天兵大隊や独立歩兵第169・171・364大隊らと共にピナ山に拠点を置く102師団(福栄師団長)の指揮下に入るも、12月23日にカナンガに下山するまでの50日間にわたるレイテ脊梁山脈における戦闘詳報はもちろん生存者の証言もほとんど無い。脊梁山脈における戦闘は後の福栄師団長の独断脱出と相まって「さえない戦闘」として、激戦の連続であったレイテ戦における評価は低い。しかし、41連隊は現役中心の精強部隊であり、ニューギニア戦を生きぬいた歴戦の指揮官が指揮していたことから、筆者としては簡単に敗走したとは考えにくい。ちなみにミンダナオ島に残留した第3大隊(長・高木少佐)はジャングル地帯を転戦し、飢えと病とゲリラに悩まされながらも終戦まで組織的行動を崩さず、数度にわたり米軍陣地に切り込みを行い、終戦間際の8月12日には虎の子の大隊砲で米軍陣地を砲撃して米軍を驚愕させた。 数少ない記録を紐解くと、102師団参謀長・和田大佐の日記によれば、11月20日の時点で「41連隊は600人に減じ、西田大隊(第1大隊)はピナ山にあり、正岡大隊(第2大隊)は716高地(米軍のいう2348高地)、連隊本部はその中間、田辺大隊(102師団の独立171大隊)は517高地」という配置が記されている。また、昭和31年に記された金子参謀の手記「第百二師団作戦経過の概要」によれば、11月下旬の戦況として「41連隊は、いぜん716高地北方高地を占領し、敵と数十メートルを距てて戦闘中にして、わが損害は兵力の半数なり。716高地は配備なく、一部の敵逐次侵入し41連隊側面は危殆に瀕しつつあり」と記されている。 昭和42年に発行された大岡昇平の「レイテ戦記」によれば、脊梁山脈に関する記載の多くは第1師団の戦闘経過であり、102師団に関する記載は少ない。大岡は、102師団は元来セブ、ネグロス、パナイ島の警備旅団で、装備訓練未熟な補充兵により成り、有効な反撃ができなかったとし、「レイテ戦全体を通じて遊兵的存在に終わった」と評価は非常に低い。前記の金子参謀の手記を引用して、716高地自身には陣地はなかったから、容易に敵の進出を許したとも記している。 昭和52年に発行された中国新聞の御田重宝の著書「レイテ・ミンダナオ戦」によれば、これらの記述から716高地は大岡同様に「ここには日本軍の陣地は無かった。」とし、米軍はこの716高地から517高地の41連隊を側面攻撃したのではないかと推測している。 続いて御田は、41連隊が517高地で激闘したという証言はないが、かなり激闘したはずと推定しており、その詳細は「永久に不明のまま終わるのであろうか。いかにも心残りである。」と、戦史が歴史の闇に葬られることを嘆いている。御田はマレー作戦・ニューギニア戦における41連隊の足跡も追いかけており、あの精強部隊が簡単に「終わった」とは考えにくかったのではないか。 昭和19年10月作成「レイテ島兵要地誌図」 ![]() この地図によれば、脊梁山脈の大部分が空白であるにもかかわらず、517高地~716高地~ピナ山周辺については等高線も詳しく入り、炭谷連隊長はこの地図をもとに517高地に向かったのかもしれない。 昭和55年に発行された田中賢一の著書「レイテ作戦の記録」によれば、著者は「ピナ山に登ったわけではない」と断りを入れ「ピナ山麓に入った部隊がここでどのような戦闘をしたか、資料は極めて乏しい」として、戦闘経過を想像して記している。すなわち、脊梁山脈に入った部隊はカリガラ平野の戦闘ですでに消耗しており、武器弾薬も乏しく(41連隊は連隊砲も速射砲も平地の戦闘で損失)、517高地はカリガラ平野を一望にする要衝ではあったが「山の上で敵の車両部隊を眺めていたに過ぎない」としている。41連隊は現役部隊であるが他の部隊は軽装備の警備師団であり召集兵が多かったとし、「その実力は疲れた歩兵が5個大隊あるに過ぎず、米軍がまともにかかってくれば一たまりもないが、米軍にとっても地形上好ましい戦場ではなかったので、11月中は持ちこたえた」と記している。つまり要点は占領しているものの、火力が乏しいので間隙に敵が入ってきて到るところ孤立し、102師団が脊梁山脈に存在しても何の価値もないような状態になり、12月23日に戦場を離脱しカナンガを経由してマタコブに向かって転進したと結論づけている。 <考察> 昭和31年に記された金子参謀の手記がその後に発行された戦記のベースになっており、特に著名な大岡昇平の「レイテ戦記」により、脊梁山脈における102師団の「弱い」イメージが固まったと言えるのではないか。大岡のレイテ戦記は発行後に明らかになった「新事実」を反映することなく版を重ねているという批判もある。筆者は御田と同様に、現役兵中心の歴戦の41連隊の戦闘の詳細に興味を持ち、正当に評価する方法を考えた結果、国内に証言者も記録も無い以上、残る手段は海外に資料を求めるか、現地の実地調査により新たな事実を探すことが有効と考えた。 <41連隊の行動概要> ![]()
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| 2012-07-31 14:00
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