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シンガポールにおける福山41連隊の激戦地「アダムパーク」

台風の影響で福岡出発が1日延期となり、8月30日にシンガポール航空にて夕方にチャンギ国際空港に到着しました。翻訳家の丸谷氏の出迎えを受け、タクシーにて市内のホテルにチェックイン。その後、NHKシンガポール支局の吉岡氏と会食し、明日からの取材に関して意見交換を行いました。
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31日は、ブキテマ高地にあるオールド・フォード・ファクトリーを見学しました。
この「フォード自動車工場」は日本軍司令官の山下奉文と英軍司令官パーシバルが降伏会見を行った場所で、山下将軍が「無条件降伏、YesかNoで返答してもらいたい」と詰め寄り、大英帝国のアジアにおける植民地支配を終結させた歴史的な場所です。
館内は偏りの少ない展示内容で、好感が持てました。
この日はちょうどマレーシアの独立記念日であり、昨年のこの日はマレーシアのゲマスで迎えたことを思い出しました。マレーシアの独立も日本軍によるシンガポール占領がきっかけであったことは間違いありません。
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激戦地であったブキテマ高地の一端にある高級住宅街アダムパークの訪問は昨年に引き続き2回目であり、イギリス人の軍事考古学者ジョン・クーパー氏と再会しました。氏はアダムパークNo.11の邸宅の敷地を学生ボランティア4名とともに発掘調査中でしたが、その模様や私との交流についてNHKから取材を受けました。
氏によれば、ここアダムパークは戦後捕虜収容所になったが、現在もその当時のままの状態をとどめており、軍事考古学の視点から見れば極めて貴重な場所であり、「聖地」であるとのことです。
金属探知機を使用した調査により、ちょうどガスマスクの眼鏡部分のレンズが出土していました。
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No.16のミニ・ゴルフコースのある邸宅はアダムパークの最も高い場所に位置する家であり、ここの争奪戦を演じた日英軍のポジションを確認しました。41連隊の第2大隊は2月12日から15日にかけての3日間、30m~50m間隔で立地するアダムパークの邸宅間で激しい銃撃戦が行われたそうです。No.20の邸宅の前は天然の塹壕状の地形となっており、ここから日本軍が侵入してきたとジョン・クーパー氏は推測されていました。
そして、ジョン・クーパー氏の案内によりアダムパークに隣接する95高地の塹壕跡を経て、シンガポールの水源地近くにあった昭南神社の跡地に向かいましたが、95高地は高速道路によりすっかり削られており、時代の変遷を感じることができました。
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シンガポールは日本占領中は「昭南島」と名を変え、さっそく昭南神社が建立されました。
しかし、日本の敗色濃厚となった頃、神社は日本軍自らの手により破壊され、今ではわずかな痕跡が残るのみです。
1時間ばかり歩いて水源地を挟んで神社跡の対岸に到着した。背後のゴルフ場には当時は日本庭園があり、水源地には立派な橋(さながら伊勢神宮前の表玄関となる宇治橋)が架けられ、神社に渡るようになっていたそうです。この神社は私も参加している南海支隊戦友遺族会の会長の辻本氏の父(高野山で400年続く宮大工で独立工兵第15連隊所属)が設計したそうで、工事にはアダムパークの捕虜収容所に入っていた英軍捕虜も駆りだされたそうです。捕虜は大工仕事と言われて行ってみれば、池の中に橋脚を立てる重労働であり苦労したとのこと。しかし、日本人の釘を使わないその工法にも目を見張ったそうです。
残念ながら時間切れで神社跡には立てませんでしたが、現地には石段や手水鉢が残っており、シンガポールの隠れた名所として訪れる方もいると聞きました。
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左よりNHK吉岡氏、私、軍事考古学者ジョン・クーパー氏。翻訳家・丸谷氏
by kkochan-com | 2012-08-31 17:48
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